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 将来的な教職とアマ球界の監督の座について聞かれると、「いまは、そんなことは考えていません」とキッパリ否定。しかし、インテリのプロ野球選手という報道のされ方を、面白く思わない同僚選手も当然出てくる。

 のちに栗山は自著『育てる力』(宝島社)の中で、チームメイトが「アイツが守るなら投げたくない」と公然と口にしたことを知り、さらには相手ベンチからは「お前、それでもプロか」と野次られた苦悩の新人時代を振り返っている。

7年の現役生活

 2年目には内野から外野へ転向して、尊敬する若松勉から、「クリ、惜しいなあ。あと3歳若ければ、いいスイッチヒッターになれたかもなあ」と声をかけられたのをきっかけに、「左での打ち方を教えてください」と頭を下げ、スイッチヒッターにも挑戦した。

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 すると、3年目に一軍で107試合に出場して、終盤は「一番右翼」に定着。打率.301、4本塁打と結果を残す。ファンレターは週30通。童顔でギャル人気が高く、少女マンガ誌「週刊少女フレンド」の「ザ・人気者ベスト10」という読者投票コーナーでは、トップアイドル光GENJIの内海光司や大沢樹生と並んで8位タイにランクインしたこともあった。

「週刊ベースボール」名物「BOX SEAT」コーナーでクリスマスについて聞かれると、「30個ぐらいのプレゼントをもらっています。一番多いのが、ぬいぐるみ」なんてヒデキ感激。『ベースボールアルバム』の広告コピーは、「栗山せんせい!こんな先生がいたらもう最高!」。芸能週刊誌「週刊明星」で、池山らと“ヤクルト男闘呼組”と特集されたこともある。

 レギュラー定着へさらなる飛躍を期した栗山だったが、4年目の87年1月にアクシデントに襲われる。持病のメニエール病が悪化して、自主トレ中の吐き気と目まいがひどく入院。一時はコーチから野球はもうできないだろうと告げられ、再就職まで考える状態だったが、2週間の入院生活に注射と点滴で症状はなんとか治まり、1カ月後にチーム合流を果たす。

 だが、出遅れと左足ふくらはぎの肉離れが響き、この年は72試合で打率.196と低迷。翌年が勝負だと夏前には寮を出て、月25万円のローンを組み東京の郊外に5000万円の一軒家を買い、2階には素振り用のスイングルームを作った。