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 88年、バント練習中にファウルチップが顔面直撃しての鼻骨骨折や自打球を当てての右足骨折と度重なる怪我に悩まされるが、助っ人テリー・ハーパーが途中帰国、前年新人王の荒井幸雄も故障でリタイアとチーム事情にも助けられ、後半戦にはセンターに定着。規定打席にはわずかに足りなかったが、打率.331のハイアベレージを残す。

 翌89年はメニエール病の再発と闘いながら、初の規定打席到達。俊足を生かした外野守備が評価され、ゴールデン・グラブ賞にも選ばれた。だが、栗山の選手としてのキャリアの終わりは、あまりに唐突に訪れる。長くBクラスに低迷するチームを変えるため、野村克也が監督に就任した90年。背番号4は代打や代走が中心の69試合の出場に終わり、広島へのトレードも噂される中、秋には引退を決意するのだ。「週刊ベースボール」90年11月26日号には緊急インタビューが掲載され、栗山は自身の体調が限界に近かったことを告白した。

「今年が大事だと一日一日、悔いのないようにやってきたつもりです。それは肉体的な理由からです。医者にいわせるとボクの体は『20代とは思えないくらい、ガタが来ている』そうなんです。実際、右ヒジ遊離骨の鈍痛で朝の洗顔さえも、ままならないほどでした」

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 さらに両足の肉離れは慢性化。メニエール病で、守っていても遠近感がつかめず、体が浮くような感覚に陥ることもあった。野村野球をもっと学びたかったが、体がそれを許さなかったのだ。

「ボクの身上は目一杯の、一生懸命のプレー。でも体調が悪くては集中力が欠如して、いかんともしがたい。きれいごとに聞こえるかもしれませんが、野球が好きだからこそ辞めなければならない、ボクの心情を察してください」

引退後はメディアで活躍

 プロ生活7年、29歳の早すぎる現役引退である。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。

 引退後の栗山は、テレビ朝日『スポーツフロンティア』のメインキャスターを務め、『ニュースステーション』の企画で大リーグのトライアウトにも挑戦。「週刊ベースボール」でコラム「らいんどらいぶ」を連載し、雑誌「ASAhiパソコン」では「栗山英樹の大冒険」コーナーで、最新のパソコン事情を学んだ。なお、栗山の監督デビューは94年2月15日号で体験したパソコンの高校野球育成ゲーム『栄冠は君に3』である。