コマ劇場の存在や歌舞伎町という町名から、この地は歌舞伎一座の本拠地だったとか、歌舞伎を催す劇場があったなどと想像する人が多いだろう。
だが、実際には歌舞伎町で歌舞伎一座がのぼりをたなびかせたことも、興行が行なわれたこともない。歌舞伎町は歌舞伎と縁がありそうで、ないのである。
終戦直後に計画された「一大文化施設ゾーン」
歌舞伎町という名称が生まれた経緯は、太平洋戦争敗戦直後の1945(昭和20)年からはじまる。もともとこの一帯は、肥前(現在の佐賀県と対馬・壱岐を除く長崎県)大村藩主の大村家の屋敷があった場所。大正時代に入って女子校が建設された頃の住居表示は、角筈一丁目だった。女子校は空襲により移転していき、あとには焼け野原が残るばかりとなった。
そのとき、角筈一丁目北町会の町会長だった鈴木喜兵衛は、地域の復興を象徴する娯楽場所をこの地に建設しようと思いつく。終戦からわずか4日目から復興計画に着手したというから目を見張る行動力である。
2カ月後には、地主やかつての住民たちを集めて復興協力会を組織。区画を整理して焼け野原に一大文化施設ゾーンを建設しようと決定した。都の了承も得た構想には、芸能広場を中心として劇場や映画館、ホテルを建設することが盛り込まれていた。そして、劇場には歌舞伎用の劇場も含まれていたのである。
幻の歌舞伎劇場「菊座」とは
この当時、演劇関係者の間では歌舞伎文化の衰退・消滅が心配されていた。外国軍の占領下で急速に西洋文化が広まるなか、日本の古典芸能である歌舞伎がないがしろにされていると危機感を抱いていた。
そうしたなかで浮上した歌舞伎劇場の建設計画。劇場名も「菊座」と決定した。町名にも、新しい文化地域にふさわしいものをという声が高まり、都の都市計画係から「歌舞伎町」という提案を受けたのだ。
この一大計画はたしかに進行し、菊座は設計が終わって、あとは建設に移るばかりだった。ところが、着工が遅々として進まないうちに、大建築物の建設禁止令が出される。その結果、菊座とその横に建設される予定だった新劇用の劇場は、建設中止に追い込まれてしまったのである。歌舞伎はこの地で演目が披露されるどころか、劇場もなく今日に至っている。結ばれるはずの糸は断ち切られたままとなったのだ。