漢字の表記変更、イメージ重視による改称、合併の際の事情……。私たちが何の気なしに呼んでいる「地名」は、さまざまな変遷のはてに現在の「地名」となっている。そんな奥深い歴史に迫った一冊が、地図研究家の今尾恵介氏による『地名散歩 地図に隠された歴史をたどる』(角川新書)だ。
ここでは同書の一部を抜粋し、地名と大学名を巡る歴史について紹介する。
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東京専門学校が改称されて早稲田大学に
一世を風靡した赤塚不二夫の漫画「天才バカボン」で、バカボンのパパは「バカ田大学卒」という設定になっていた。校歌は「都の西北早稲田の“隣”」というもので、私は小学生の頃に読んで知っていたため、後になって早稲田大学校歌が元歌であることを知った次第である。お粗末な話だが、実は早稲田大学は本当に「早稲田の隣」だった。早稲田大学のホームページには「早稲田の歴史」と称して次のように記されている。
創立者・大隈重信の別邸が東京府南豊島郡早稲田村にあり、また校舎が同郡戸塚村にあったことから「早稲田学校」「戸塚学校」とも呼ばれていましたが、最終的には「東京専門学校」と名付けられました。
この東京専門学校は明治35年(1902)に早稲田大学と改称されている。地形図で確かめてみると、大隈の別邸は明治末の1万分の1地形図に「大隈邸」と明記されており、第一次世界大戦が勃発した際に大隈首相は、ここで対ドイツ施策の検討を行ったという。細かいことを言えば学校創立当時の明治15年(1882)には戸塚村ではなく下戸塚村だ。同22年の町村制施行で「戸塚村大字下戸塚」となったので、おそらく混同したのだろう。
早稲田大学は昔から「早稲田の隣」だった
その後別邸は大正11年(1922)の大隈の没後に早稲田大学へ寄贈されて大隈会館となった。大学のホームページに記されている「早稲田村にあった」はずの大隈別邸の大半は図では下戸塚村(後の大字下戸塚)のエリアで、広大な庭園の南東側の一部だけが早稲田村だった。広壮な建物は明らかに下戸塚の方にあり、早稲田鶴巻町(旧早稲田村)には植え込みしかない。もっとも、屋敷が複数の大字にまたがっている場合は住所の表記をどちらかに決めるので、狭い範囲ながら早稲田鶴巻町の方を選んだということだろうか。