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 それはともかく、早稲田大学が全面的に戸塚村にあったことは間違いなく、つまり大学は昔から「早稲田の隣」だった。もちろん「早稲田の杜」を広義に捉えれば厳密な境界は意味がなく、詐称だなどと目くじらを立てるつもりはないけれど。さて、早稲田村と戸塚村の境界は明治22年(1889)に東京市が発足した後に運命が分かれることとなった。早稲田村は同24年から東京市牛込区早稲田鶴巻町となり、下戸塚村は南豊島郡(後に豊多摩郡)戸塚村大字下戸塚となり、だいぶ見た印象の異なる住所となったのである(大正3年から戸塚町)。その後は都市化の進展で東京市域の拡大が計画され、昭和7年(1932)に周辺の5郡82町村が編入されることとなった(同11年に2村を追加)。

名門大学の威光で戸塚町の大半が「西早稲田」となる

 大合併の経緯を記した『東京市域拡張史』(東京市役所・昭和9年)によれば、東京市は合併の際に錯雑した境界を整えるつもりだった。調査の結果、「早稲田大学所在地ハ戸塚町下戸塚ナリト雖(イヘド)モ其ノ校名ハ牛込区ノ地方名ニ縁由シ、早稲田学園トシテ同系統ニ在ル早稲田中学校、早稲田実業、早稲田高等学院カ当区内ニ存在セルヲ以(モツ)テ、同大学ガ世上一般ヨリ牛込区ニ存セルガ如ク認メラルヽハ当然ノコトナリ」と、早稲田大学の校地を牛込区に編入するのが適当であると結論を出している。

早稲田になかった早稲田大学。当時は豊多摩郡戸塚町大字下戸塚で、大隈会館も同じ大字に加えて一部が東京市牛込区早稲田鶴巻町。1:10,000「早稲田」大正14年修正

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 ところが各地から境界変更または不変更の訴えが百出して収拾が付かなくなり、これらをひとつずつ検討すれば合併が大幅に遅れることから、結局はすべてを却下して原案通りの境界を踏襲した編入が行われた。戦後は牛込・淀橋の両区とも新宿区となったが、長らく大学の住所であった戸塚町の大半は住居表示を実施した昭和50年(1975)に「西早稲田」となった。名門大学の威光が効いたのだろう。いずれにせよ今では校歌と実質が堂々たる一致を見ている。ついでながら埼玉県本庄市の同大学本庄キャンパスの最寄り駅・上越新幹線の本庄早稲田駅前の土地は平成25年(2013)に早稲田の杜(一丁目~五丁目)に変更された(旧地名は北堀・栗崎・東富田 ・西富田)。