都市化に合わせ、青山から町名が大々的に変更される
反対に地名に逃げられてしまったのが青山学院である。東京英学校が築地から青山へ移って東京英和学校となったのは明治16年(1883)だが、この時の所在地は東京府赤坂区青山南町七丁目であった。青山学院と改称するのは11年後の同27年のことであるが、その間の同22年に行われた市制施行によって東京市が誕生した際、江戸の町を踏襲したギザギザと錯雑した市郡界をすっきり整える作業が行われた。
たとえば大山街道沿いに細長く郊外へ飛び出した部分や、反対に赤坂区にあった原宿村の飛地などを解消すべく「一刀両断」的にまとめたのだが、その際に宮益坂下(現在の渋谷駅前)まで延びていた赤坂区が青山の六丁目までに短縮され、まさに青山学院のある七丁目から西側が南豊島郡渋谷村大字青山南町七丁目とされたのである。
渋谷村は明治42年(1909)に渋谷町となり、その後は都市化に合わせて昭和3年(1928)に町名が大々的に変更された。青山七丁目も隣の赤坂区(現港区)となった青山の地名を避け、緑岡町その他に変わっている(昭和7年から渋谷区緑岡町)。「青い山」に対抗して「緑の岡」ということらしいが、さらに戦後には住居表示の実施で一帯が広範囲の「渋谷」に呑み込まれた。その代わりというわけでもないが、一時キャンパスを置いていた神奈川県厚木市には、青学にちなむ町名「森の里青山」がその名残を留めている。こちらは青山学院大学の移転を機に命名されたものだが、平成15年(2003)の再移転で「青山」は地名だけの存在となった。「青山」に逃げられてから114年後に「青山」から飛び出したことになる。