高瀬 ありがとうございます。そうか、そうなんですね。私、書いてるときは怖い話にしようとは思ってないんです。むしろ怖くはないよね、と思いながら書いてて。でも読んでくださった方の感想を聞いて私も怖くなることが結構あるんですよ。
いま私たちの社会では、なぜか「はげ」だけは笑っていいことになってる気がしたんです。笑っちゃダメなのに笑っていいものになっているのが気持ち悪くて、『め生える』を書き始めました。最近も、道端で幼い子どもが大声で「はげ!」と言って笑ってるのを目にして。
大前 え、人を指さしてですか。
高瀬 たぶんそうです。
大前 えっ、こわ!
高瀬 でもそれって、生まれた時からそうやって笑ってるんじゃなくて、テレビとか親御さんとか、周りの誰かから受けた影響でその子は笑ってるわけじゃないですか。はげの話っていうだけでなんか「ふっ」て笑う人もいるだろうなと思って、怖いのはそっちじゃないかと。はげが笑われる世界が怖いから、読んで怖くなるんだと思います。
小説の怖さとあたたかさ
——先ほど大前さんは、高瀬さんの作品のなかには「あたたかさ」があるとおっしゃっていましたが、たとえば『め生える』だとどこに感じられましたか?
大前 言葉とかフレーズがあたたかいっていうより、人がほんとはこう思っているってことを小説の中の言葉として読んで知ることができるということ自体があたたかいっていうか、うれしく感じるんです。
高瀬 自分の小説についてではないですけど、本を読むときにそういう経験はしているのでわかります。好きな作家さんの本を読んでいて、作品も大好きなんだけど、書かれている深刻なテーマや重たい描写に傷つくことがあるんです。でも、傷ついて辛いけど、その傷からしか動けないというか。辛い話でも、そういうものを受け取ったときに励まされた感じがするんですよね。読んでるときは傷ついてるけど、2、3日後に励まされていたり、人生を通して励まされていたり。でも自分の本では自分は励まされていないかもしれないです。
大前 先ほどかゆいところに手が届くというふうに言いましたが、高瀬さんの小説にはそういうパンチラインみたいなものがありますよね。ご自分では「よしここはウケるぞ!」みたいに思ったりしますか?