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 もし自分が誰かを親友だと思っていても、相手にとってはそうでないかもしれない。私は大勢のうちの一人で、大して重要な存在ではないかもしれない。相手に「親友だよね」と言われても、自分が相手と同じように思えないかもしれない。だから言葉によって気持ちを確かめることも、確かめられることも、どちらも怖かった。それによってゆるやかな拒絶が生まれてしまうのが、怖かった。

 言葉によって関係をつくるのでなく、関係が先にあってほしい。その関係性が特別なものだと、言葉にせずとも肌で感じている頃に、自然とそう呼ばれるものになっていたらいい。

 だから私はほとんど親友という言葉を使ったことがなかったし、「自分にとっての親友」のような話題になると、たとえ輪の中にいても突然ひとりぼっちになったような気がして心細かった。

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気がつけばずっと自由で自然な気持ちで友達と会っていた

 親しい友達は、学生時代よりも社会人になってからの方が多くなった。短歌を通じて出会った友達。ゲームを通じて出会った友達。映画やサウナに一緒に行くことで、仲が深まった友達。同じ学校に通うという共通点ではなく、趣味で生まれた関係が、どんどん広がっていく。

 誰と会うか、誰と一緒にいるかは自分が決める。人の目は気にしなくていい。いろんなことに無意識にがんじがらめになっていた学生時代よりも、気がつけばずっと自由で自然な気持ちで友達と会っていた。一緒に旅行をしたり、故郷に遊びに来てもらったりと、今では親密で大切な友達が何人も思い浮かぶことが嬉しい。

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 去年、社会人サークルの同窓会に顔を出したときのこと。私を家に泊めてくれたり、一緒に旅行をしたりする特別な友人の一人が、私のことを他の参加者に紹介するときに「親友です」と言った。

 はっとした。私も彼女のことを本当に大切に思っていたからだ。自分たちの関係を互いに確かめるような言葉ではなく、心地よく楽しくお互いが過ごす中で自然とついた呼称が、じわじわとうれしさを増幅させていった。そのとき、長年の親友という言葉の呪縛から解放されたような気がした。