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 人違いであったとはいえ出演が決まり、当時、局のアナウンサーだった久米宏とのコンビで「ミュージック・キャラバン」というコーナーを担当する。そこでは毎回、平野が「男が出るか女が出るか」と叫ぶのがお約束であった。これについて彼女はのちにエッセイで、《二年半毎日それを繰り返していたら、のどがおかしくなり美声がドラ声になっちゃった(相棒の久米宏はそれを「のどちんこ骨折」と言った)。だからシャンソンを前ほどきれいな声では唄えない。そのかわりラジオを聞いて私をお嫁に欲しいと言う人が出てきた。今その人と結婚している》とユーモアたっぷりに書いている(『文藝春秋』1974年11月号)。

ユニークな馴れ初め

 結婚した「その人」というのが、イラストレーターでグラフィックデザイナーの和田誠であった。じつは和田は、平野のことをラジオ以前にテレビで見て知っていた。そのとき、彼女はピアノの演奏に合わせて歌い始めたものの、急に「ストップ」と言ってやめたかと思うと、改めて歌い直した。それが和田にはチャーミングに感じられたという。

イラストレーターの和田誠さんと結婚 ©文藝春秋

 それからしばらくしてラジオで彼女の声を聞いて惚れ込み、麻雀仲間だった久米宏に紹介してほしいと言うも「やめときなさい」と断られた。しかたがないので、知り合いのディレクターに頼むと今度は「紹介してもいいけど、責任持ちませんよ」と言われてしまう。そうやってようやくTBSの近くのしゃぶしゃぶ店で初めて会った。

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 このとき、平野は、事前に久米から「食事のあと、和田さんが『家に来ない?』って言っても、絶対ついていっちゃだめだよ」と言われていたが、実際に和田に誘われると反発心が湧いた。そこで家に行くと、本がたくさんあったのですっかり和田を尊敬してしまう。そのなかに浮世絵師・月岡芳年の本があり、血だらけの怖い絵ばかりが載っていた。そこから和田は色々とお化けの話を聞かせてくれた。その話が面白いうえ、彼が明日も話してあげようかと言うので、結局、4日も家に通うことになる。

4日目は不在だったが…

 4日目は和田がフランク・シナトラのコンサートを観るため渡米してしまったので不在だったが、彼の友人である俳優の渥美清やタレントの永六輔などが来宅し、こんなインテリで面白い人たちと仲がいいんだとまた和田を尊敬した。

 それから1週間ほどして帰国した和田からプロポーズを受ける。彼は結婚を前に初めて平野の家を訪ねると、父の威馬雄から色紙に自分たち夫婦の似顔絵を描くよう言われ、緊張しながらも描き上げた。それで結婚を許してもらったものの、父は娘の結婚時期は翌年の6月頃と決めていたらしい。その時点で半年も先だったので、母はそのあいだに娘の気が変わってしまうかもしれないと考え、翌朝、「レミちゃん、いいから行ってらっしゃい」と送り出した。こうしてそのまま結婚生活が始まる。1972年の暮れのことであった。