それまで歌う女優として舞台に映画にと活躍していた笠置が、歌手を廃業した理由をこう述べている。何事も一途に努力する笠置の、生一本な性格がよく表れている。
「歌える女優として望外の知遇を得ましたが、民放ラジオの各局からドラマ出演の交渉を受けるようになったのを機会に、二足のわらじを履くことを断念しました。(略)三十四歳でブギウギに挑戦し、四十歳をすぎてドラマを克服しなければならない“老いたる戦後派”です。もともと一本気の私なのですから、“なんでも屋”になりきれるわけがありませんもの」
(『婦人公論』1966年8月号「ブギウギから二十年」)
笠置が女優業に転身してすぐの頃、南原繁が笠置の出演するテレビ局のスタジオを訪問したという話を、私は南原の長男・南原実さん(東大名誉教授、1930〜2013)から直接伺った。
「昭和30年頃、父から、笠置さんが母親役で出演しているホームドラマのテレビスタジオを見学してきた、と聞いたことがあります」
と実さんは語る。そのとき実さんは20代後半だったという。
ホームドラマの「お母さん女優」としてキャリア転換に成功
南原は1951年12月に2期目の東大総長を任期満了で辞任し、以後は著作と講演活動で多忙な日々を送っていて、昭和30年頃は南原が60代後半ということになる。笠置は1961年から4年間、フジテレビの「台風家族」でも母親役を演じているが、時期から考えて、その前のラジオ東京テレビ(現在のTBS)の「雨だれ母さん」のときで、南原が見学した時期はずばり57年か58年だと考えられる。
二人が1951年に初めて会って以来、笠置は南原を父のように慕ってきたが、互いに多忙でなかなか会う機会がなかった。このとき笠置が南原をスタジオに誘ったのではないだろうか。
笠置が歌手を廃業して女優に転身した当時、「笠置さんはズルイ。目先を利かせて、うまいこと看板を塗り変えたわね」と言われたと、後に笠置は雑誌の手記に書いている(言った人物の名前は書かれていない)。笠置に面と向かってそんな“皮肉めいた冗談”を言える人物は、淡谷のり子以外にはいない。やがてその人物はこうも言っている。
「すっかり“お母さん女優”がイタについたわね。案外やるじゃないの」そんな“ゴマをすられて”、笠置は「襟すじをムズムズさせております」と書き、ユーモアでお返ししている。
ノンフィクション作家
1949年、香川県生まれ。新聞や雑誌にルポやエッセイを寄稿。明治・大正期のジャーナリスト、宮武外骨の研究者でもある。著書に『外骨みたいに生きてみたい 反骨にして楽天なり』(現代書館)など