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伊周が21歳で内大臣になり、隆家が16歳で公卿になった正暦5年(994)には、すでに疫病が都に蔓延していた。『栄華物語』は「いかなるにか今年世の中騒がしう、春よりわづらふ人々多く、道大路にもゆゆしき物ども多かり〔どうしたことか、この年は世の中が騒然とし、春から病にかかる人が多く、都の大路にも忌まわしいもの(遺体のこと)がたくさんある〕」と書かれている。

このときの疫病は疱瘡、現代でいう天然痘で、『日本紀略』の正暦5年「七月条」には「京師の死者半ばに過ぐる。五位以上六十七人なり」と記されている。都では人口の半分が死亡し、五位以上の貴族だけでも67人が死んだというのだ。これが道隆を襲うことになる。

だが、大の酒好きだったと伝わる道隆は、もともと飲水病、つまり現代の糖尿病も患っていた。前出の山本氏は、「本人にはしばらく前から自覚症状があったのではないか。その焦りがあからさまな人事に直結したと思えてならない」と書いている(前掲書)。

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疱瘡と飲水病のどちらが致命傷だったかはわからないが、長徳元年(995)4月10日、道隆は死去してしまう。

死の間際に願ったことはすべて却下された

死を意識した道隆は手を打とうとした。3月5日には、伊周を内覧(天皇が裁可する役割で、職務は関白に近い)に就けて政務を譲ろうとしたが、一条天皇は、道隆の病中の内覧しか許さなかった。死の1週間前の4月3日には、関白職を辞して、それを伊周に譲ろうとしたが、やはり却下された。

結局、4月27日に、道隆の弟の道兼を関白にする詔が下ったが、これについて倉本一宏氏は、「世代交代を阻止し、同母兄弟間の権力継承を望んだ詮子の意向がはたらいたのであろう」と記す(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。道隆の強引すぎた人事に対する、妹の詮子の逆襲とみることもできるだろう。

しかし、その道兼にも疫病の魔の手が迫っていた。5月2日、天皇に関白就任の御礼を言上するとそのまま倒れ、8日には死去してしまう。内覧の宣旨が道長に下ったのはその3日後だった。道長は藤原氏一門を統括する氏長者にもなり、6月19日には右大臣に就任して、彼の時代の幕開けとなった。