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その際、内大臣に据え置かれた道隆の長男、伊周は、それまで身びいきされてきただけに受け入れがたかったようだ。

藤原実資の『小右記』によれば、7月24日には、伊周が公卿会議で道長に「闘乱」するように激しく楯突き、8月2日には、弟の隆家の家人が道長の家人と七条大路で乱闘におよび、道長側に犠牲者が出たという。

法皇を襲撃、天皇の女御を呪殺未遂

だが、翌長徳2年(996)正月14日、伊周と隆家の兄弟は自滅してしまう。『三条西家重書古文書』によれば、この日、花山院が太政大臣だった故藤原為光の家ですごした際、内大臣の伊周と中納言の隆家と遭遇し、闘乱の結果、花山院側の童子2人が殺され、首が持ち去られたとのこと。首を持ち去ったのは、隆家の従者だったようだ。

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事件の背景について『栄華物語』で補えば、伊周は為光の三女を恋人にして密かに通っており、一方、花山院は四女に言い寄っていた(それは花山院がかつて溺愛した女御、忯子の妹だった)。ところが伊周は、花山院が自分の女である三女に手を出したと勘違いし、弟とともに従者を連れて花山院を待ち伏せし、院に射掛けて袖を矢で貫通させてしまった、というのだ。

こうして2人には、法皇を襲撃した嫌疑をかけられたが、それだけでは済まなかった。詮子が重病に陥ったので御在所の床下を探ると、呪詛の道具が掘り出され、伊周の仕業だとされた。加えて伊周は、天皇家にしか許されない「太元帥法」を行うように僧に命じ、天皇の権威を侵害したと告発されてしまった。

その結果、一条天皇は4月24日、内大臣の伊周は太宰権帥、中納言の隆家は出雲権守へと降格のうえ、即刻配流するように命じることになった。だが、さらに見苦しかったのはその後である。

伊周と隆家は出頭を拒否して、伊周の同母妹である中宮定子の御所に立てこもり、検非違使に乗り込まれると、隆家は捕らえられたが伊周は逃亡。

その後、出家姿で出頭した伊周だったが、太宰府に送られる途中に病気と偽って播磨(兵庫県南西部)にとどまり、ひそかに上京して定子にかくまわれているのが発覚。出家もウソだったと発覚し、太宰府に送られている。