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この時期の教皇は、ピウス9世だった。ピウス9世の在位期間は、1846年6月から78年2月の31年7カ月にも及んだ。
その間に第1バチカン公会議(1869~70年)を行い教皇の不可謬性の教義(教義と道徳に関する教皇の発言は過ちから免れる)、謬説表(間違った学説や思想の一覧表)の発表などをして、教会の体制強化を図った。
要はカトリック教会が弱体化したので、引き締めを強化したのだ。その文脈で、見逃すことも可能だったエドガルドの事案に厳しくあたらざるを得なくなったのだと思う。
臨終間際の母に洗礼を授けようとするが…
神父となったエドガルドは、キリスト教的世界観を身体化してしまった。イタリアが統一され、社会がカトリック教会の軛(くびき)から解放され、帰宅が可能になっても教会に留まる。
さらに臨終間際の母親にも洗礼を授けようとする。しかし、母親は「ユダヤ教徒として死にたい」とエドガルドの提案を拒否する。