米大リーグ、エンゼルスでデビューを果たした大谷翔平選手が投打に圧倒的な力を見せている。現代の野球では無理だとされていた投手と野手両方での先発出場で活躍し、注目は高まるばかりだ。

 大リーグで2桁勝利と2桁本塁打を同一シーズンに記録したのは1918年のベーブ・ルースしかいない。この100年前の数字に並ぶかが成功の一つの目安とされるが、そもそもなぜ「二刀流」は定着しなかったのだろうか。

開幕から大リーグのファンを熱狂させている

監督との確執が決定的になった

 まずは1918年のルースの足跡をたどろう。当時、野球報道は既に隆盛を誇っており、新聞などの資料からシーズンの詳細が分かる。作家のロバート・クリーマーは1974年にルース伝説を検証。二刀流についても記している。ルースはプロ5年目だったレッドソックス時代の1918年に初めて野手で出場した。早くから打撃を買われていたが、投手として20勝を挙げるエースであり、1917年まで投げない日の出場は代打に限られていた。

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 エド・バロー監督は、先発投手のコンディション維持を重視し、野手起用には「球界の笑いものになる」と反対した。だがコーチの進言で5月6日のヤンキース戦に「6番・一塁」で起用すると、ルースはその試合で本塁打。翌7日はセネタース戦に「4番・一塁」で出てまた本塁打を放った。登板日の打撃もさえ、9日のセネタース戦では延長10回を完投し、5打数5安打だった。

最後の10勝&10本達成者、ベーブ・ルース ©共同通信社

 だが5月後半に風邪をこじらせて休養すると、復帰後は登板を嫌がるようになる。

 6月に入ると、手首に革のサポーターを巻いて球場に現れ、痛みで投げられないと訴える。監督が構わず6月24日のヤンキース戦での先発を発表すると、前の試合で二塁へ滑り込んで手首を押さえて退場。結局投げなかった。ところがけが人に代わって25日に野手で緊急出場すると、手首痛など全く感じさせず本塁打。ルースと監督の確執は決定的となった。

 打撃に目覚めたルースは野手でしばらくプレーすると思われたが、7月末に状況が一変した。激化する第1次世界大戦の影響でシーズン短縮が決まったのだ。レギュラーシーズン最終戦は9月2日。

 ペナントレースは突然終盤戦に入った。バロー監督はルースを説得して、7月29日から先発投手に戻した。成績はこの時点で6勝、11本塁打。ルースは残り1カ月余りで7勝を挙げて優勝に貢献し、投打のシーズン成績は13勝、11本塁打となった。