1919年は希望通り野手としての出番が増え、1920年にヤンキースへ移籍すると、本格的に投手を務めることはなくなった。史上屈指の選手でさえ、投打両方をこなし続けることはできなかったとの見方が広まった。だがルースは「続けられなかった」というより「続けたくなかった」のだ。ルースが二刀流をやめてしまったことが、二刀流消滅の最大の理由に他ならない。
バロー監督のその後も二刀流が無理との見解に影響した。バローはルースと同じ年にヤンキースへ移り、20年以上にわたりフロントで編成を担当。その実績で野球殿堂にも入った。二刀流に反対だったバローが常にルースの周囲にいて意見を述べたことで、不可能説が固まったことは想像に難くない。
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役割分化を固定したDH制が二刀流を可能に
その後は時代が進むとともに球界のシステムが確立され、二刀流が入り込む余地はどんどん小さくなっていった。
1973年にア・リーグで導入された指名打者(DH)制は、投手と野手の役割分化を固定した。この分業制の象徴のような制度は、米国ではプロ野球から球界全体に広がり、アマ野球に強く影響した。現在は全米大学体育協会(NCAA)が1~3部の全レベルで採用し、高校でもほとんどのリーグが使っている。プロと違い、学生はルール上「投手兼DH」で出場することも可能だが、それでも制度の導入で投手専念の傾向が強まったことは否定できない。
一方で、そのDH制が大谷の二刀流を可能にしているのは面白い。大谷は「投球を含めたゲームに出場する間隔が僕のリズム」と二刀流にこだわり、米国でのチーム選びも投打両方でのプレー環境を重視した。鍵となったのがDH制だ。大リーグで松井秀喜、岩村明憲らが守備中に大けがを負ったように、守備はリスクが高い。DH制のパ・リーグで調整法を確立した大谷が、同じDH制のア・リーグのエンゼルスを選んだのは必然だった。
昨年、MLBTVの解説者リック・アンキール氏は「大谷がアメリカン・リーグに行くことを祈っている」と話した。当時は投手が打席に立つナ・リーグを勧める声が多かったが、投手から外野手に転向した経験のあるアンキール氏は二刀流にDH制が欠かせないとの考えだった。
米国で日本以上に二刀流が難しいと思われてきた理由
中4日での先発登板を基本とする米国では、日本以上に二刀流が難しいと思われてきた。投手として調整に専念する期間が短くなるからだ。そこに欠けていたのは、二刀流のために中4日を変えるという発想だ。
登板間隔を特別に考慮するなら、二刀流であることによって投手としては守られる面もある。日本ハムでの5年間で大谷の最多投球回数は2015年の160回2/3。パ・リーグの最優秀選手(MVP)に選出された2016年は規定投球回数を下回る140回だった。
日本ハムの先輩ダルビッシュ有(シカゴ・カブス)は、日本での7シーズンで200イニング以上が4度。田中将大(ニューヨーク・ヤンキース)は、高卒1年目だった2007年に楽天でいきなり186回1/3を投げている。大リーグに移籍してからも基本的に中4日のローテーションを守り、ともに右肘の靱帯損傷で離脱を経験した。大谷はエンゼルスでも登板間隔は中6日。投手にとって大切な肩、肘の状態だけを考えれば、二刀流はアドバンテージと言える。