豊かな家で育てられた彼女である。大変な苦労であったろう。
終戦前後の3年間で家族を次々と失い、4つの葬式を出す
終戦をはさんで3年の間に、嘉子は4つの葬式を出した。
まず、彼女のすぐ下の弟、一郎が戦死(昭和19年〔1944年〕6月)。彼は、2度目の応召で沖縄に向かっていた。船が鹿児島湾の沖で、沈没した。
武藤家の長男が亡くなったわけである。しかも、遺骨は帰らなかった。遺品だけが父のもとに返された。
次に、嘉子の夫が軍隊で病死した(昭和21年〔1946年〕5月)。和田芳夫は病気をするために兵隊に行ったようなものだった。中国に渡るとすぐ発病。上海で入院した。そして、長崎の陸軍病院までは帰って来ていた。
芳夫と嘉子夫婦の一人息子である和田芳武は、筆者にこう語った。
芳武「父が危ないのですぐ来いとの電報がありました。しかし、その電報は、四国の本籍地あてでした。母は東京にいました。手元に届くまで時間がかかりました。
電報が家に着いたときのことは、今でも覚えています。家中、驚きましたから」
筆者「まだ3歳でいらしたでしょう。よく、記憶にありますね」
芳武「ええ。強い印象でした」
嘉子は当時、明治大学の女子部で、民法を教えていた。ちょうど女子部で勉強していた、佐賀小里は言う。筆者の義母である。
「ご主人を亡くされ、嘉子先生はひどく泣いておられました。顔をむくませて、学校に来られました。
涙で顔が紫色になった人を見るのは、私は初めて。『夫が死ぬと、こんなにつらいめにあうのか。それなら、私は結婚はするまい』と思ったほどでした」
嘉子の母ノブも脳いつ血で急逝、その9カ月後も葬式を出す
さらに、嘉子の母、ノブも脳いつ血で突然、世を去った(昭和22年〔1947年〕1月)。心労が重なったのだろう。
芳武は4歳。祖母の死去の日も、彼は覚えていた。
芳武「おだやかな日でした。母の嘉子は、洗濯物を干すため、さおをふいていました。祖母は井戸端で洗濯をしていて、急に倒れたのです」
筆者「どんなおばあさまでしたか」
芳武「行儀にうるさく、怒ると怖かったです。しかし、いつもはとても優しかった。祖母が四角いかごを背負ってぼくを中に入れ、新潟の瀬波温泉まで連れて行ってくれたこともありました」