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夫の和田芳夫は優しい人、病弱なのに兵役について病死する

「結婚は、相手の性格がいいことが一番だ」と、筆者は思う。芳夫と結婚して、嘉子はよかっただろう。

しかし、一方、法律を勉強したというだけで、結婚の話が来なくなるなんて。何と不当なことか――。

嘉子と和田芳夫の結婚式(昭和16年)出典=『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』

輝彦は言う。

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「当時の世間は、女性が勉強することを望まなかったのでしょう」

結婚して1年2カ月後。昭和18年(1943年)1月1日、ひとつぶ種の芳武が生まれた。嘉子の両親にとって、芳武は初孫である。目に入れても痛くないほど、かわいがった。

子供が生まれて1年半後。昭和19年(1944年)6月、夫の芳夫は兵隊にとられた。しかし、以前に肋膜炎をした傷あとがあって、召集が解除された。

しかし、翌20年(1945年)1月。彼はまた召集された。もう戦争の末期である。弟の輝彦はこう書いている。

「再度赤紙をうけた時は、少々の後遺症など論外。また本人もそれを強く主張することが出来ない雰囲気だったのでしょう。この気の弱さ、最高の好人物であったことが悔やまれます」(同書)

芳夫は戦地に行き、病気で亡くなってしまう。

お嬢様育ちの嘉子が福島の農家に疎開して田植えを手伝う

戦争が激しくなるにつれ、生活が苦しくなった。長男の芳武が生まれて約1年後の昭和19年2月。住んでいた麻布笄町(こうがいちょう)の借家は、軍の命令で引き倒された。空襲による火事を防ぐためであろう。嘉子らは高樹町に移った。しかし、翌20年5月。この家も空襲で焼けた。弟の一郎の妻である嘉根と一緒に、嘉子は疎開した。嘉根は生まれたばかりの娘を連れていた。芳武は、2歳半だった。

4人は6カ月間、福島県の坂下の農家で暮らした。輝彦は疎開先の様子をこう語る。

「(姉がいたのは)畳もないゴザの上、ランプの灯の下で、ノミとシラミの巣の中、四方八方に頭をさげながらの食糧確保、ジメジメした裏庭での不便な炊事。田植えを手伝ったり、鍬を握ってお百姓さんの真似事を覚えました。幼い子を守る必死のタタカイを、生来の旺盛なバイタリティでとにかく耐えました」(同書)