この「体験」をするのは難しいことではない。ただ読めばよいだけだ。大学などで文学史や作品や作家についての先行研究が紹介されるのは、何はともあれ作品を読んでもらいたいからだ。ところが補助線であるべきものが抹消線になってしまう。ゴーリキーの『どん底』について学生たちがさまざまな解釈を示すのに耳を傾けながら、「どの解釈にしてもそれなりの背景があって、読みときながら『なぜそう言われているのか』を考えるのが大事になってきます」と枚下先生は言う。「おおよそ『イズム』なんてものは教科書的な分類か、政治的に肯定できるか否かを判断するための弁明のカテゴリにすぎませんので、そんなことは気にせず個々の事例をつぶさにみていくしかないんです」。
個々の作品をていねいに読む。枚下先生はもちろん作品の時代背景や受容や解釈の変遷についても話してくれる。しかしその案配が見事で、個々の作品との出会いを決して妨げはしない。学生たちの言葉を促し、それに答えながら各自の作品「体験」がより豊かになるよう言葉を添えていく。
そもそも、どうして私たちは物語を読むのか。枚下先生は「ロシア文学を素材として体験することによって、社会とは、愛とはなにかを考えます」とシラバスに書く。「社会」と「愛」を考えるとは、自分は一人ではないと認識することだ。社会は多数の個人からなり、愛は相手を必要とする。元来読書は個人的な営みである。現実世界でいやなことや苦しいことがあったときの逃避場所でもある。それがどうして私たちを他者と結びつける回路を開くのか。
二〇二二年二月二十四日にロシアがウクライナに侵攻し、その戦争がなおも続いているいま、ゲルツェンの『向こう岸から』を読みながら、湯浦はゲルツェンの苦悩に触れる。一八四八年の二月革命以降の社会的混乱のなかで起きたフランス軍による民衆の殺戮に衝撃を受けて、「どうしたら人の痛みを蔑ろにせずに思想を形成できるのか」と自問するゲルツェンに、自分自身の痛みを引き受けてもらったかのように支えられる。「噓みたいだ。ウクライナという文字を見ただけで思考が止まってしまいそうだった自分が、いままで目を背けなければ耐えられなかった多くのことを正面から考えられている」。
物語を深く「体験」することは現実からの単なる逃避ではない。かりに現在がすでに、「人間を愛情なしで扱ってもいい立場があると勘違いする」者たちが蔓延し、「暴力や虚偽や残虐が露呈し人間の尊厳の喪失が大多数の人々の一般的な行動規範となる恐ろしい時代」なのだとしたら、文学は、物語は、そして本書『ロシア文学の教室』はつねに私たちのそばにあって、解決策を与えるのとは異なるやり方で、私たちがそれぞれの現実に向きあい、生きつづける助けとなってくれる。