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 では授業を担当する二メートル近い巨漢の枚下先生は、学生たちに何を求めているのだろうか。課題作品を読んで内容をまとめ、関連する事実を調べて発表?

 違うのだ。枚下先生が、湯浦、新名、入谷といったカタカナで表記すればロシア人の名前(ユーラ、ニーナ、イリヤ)に聞こえる学生たちに望むのは、作品を「体験」することなのだ。

 では作品を「体験」するとはどういうことなのか。

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 たとえば、本作の主人公湯浦葵がチェーホフの短編を読むとき――「さて枚下先生が好きなのはどんな作品だろうとプリントを覗く。とたんにプリントの余白がすうっと陽の光に、文字が緑の葉になり、行間には川の清流が流れはじめる――」。湯浦は気づけばチェーホフの『コントラバス物語』の登場人物になっている。「僕はコントラバスを背負い、燕尾服にシルクハットをかぶって小川沿いの道を歩いている」。ゴーゴリの『ネフスキイ大通り』を開けば、夕暮れのネフスキイ大通り――「黄昏が家々や街路の上に降りてきて、点灯夫がはしごにのぼって街灯に火をともしていくころ、ネフスキイはふたたび活気づきはじめる」――に連れて行かれる。ネクラーソフの『ロシヤは誰に住みよいか』を読めば、すでにロシアの農民たちの暮らしのただなかにいる――「僕たちはだだっ広い田舎道にいた。踏み均された道沿いには距離を示す木の柱がぽつりぽつりと一定間隔で立っていて、道端にはごぼうのような草が茂っている」。

 この「体験」とは、そう読書に夢中になっているときに私たちの誰もが経験していることだ。現実が遠景に退いていき、作品のなかに吸い込まれる。主人公に、あるいは脇役だろうが心惹かれる人物に感情移入し、その視点から世界を眺め、気づけばその人になりきっている。いや人だけではない。動物や植物や石にだってなりうる――ガルシンの植物たちが主人公となる短編を読んだときに、つる草として物語を「体験」した湯浦のように。物語を通じて、私たちは自分にあらざるものになる。本書は物語の持つこの魔法を、湯浦を通して私たちに追体験させてくれる。