なぜモスクワとNYの演劇が結びついたのか?
だが、そこからは紆余曲折の連続だった。
映画をもとにしたノベライズは書いたことがあったが、オリジナルの小説を書くのはまったくの未経験。映画の撮影や、脚本作りの合間に少しずつ書き進めていったが、方法論をつかむまでに4~5年かかってしまった。
それでもまだ何かが足りない気がする。
そこで考えついたのが、若者たちの群像という「横軸」に、演劇の歴史という「縦軸」を導入することだった。
スタニスラフスキイという名前をご存知だろうか?
「スタニスラフスキイ・システム」といえば、現在に至るまで世界中の標準になっている俳優教育法である。
前述の、ネイバーフッド・プレイハウスでもそのシステムを元にした指導が今も行われている。
しかし、スタニスラフスキイはロシア・ソ連の演出家である。そのメソッドが、なぜアメリカでも標準になっているのだろうか?
スタニスラフスキイが中心となった20世紀初頭のモスクワの演劇は世界最高水準にあった。しかも古代ギリシャ演劇から中国の京劇、日本の歌舞伎に至るまで、世界中の粋を集めた革命的演劇人の存在があったのである。
何年もかけて調べていくうち、大きな驚きを覚えていった。
しかし、モスクワ演劇の黄金期はわずかしか続かなかった。なぜだろうか?
そして、その「遺産」がニューヨークに残っているのはなぜだろうか?
その「謎」を、私は小説の主人公である城島ペンの前に差し出したのである。
その骨格が固まってからは、あとは一気呵成に書き上げることができた。
「謎」の答えは、『ACT!』を読んで、ぜひたしかめて頂きたい。
若者たちよ、世界に飛び出せ!
いま私は、監督業のかたわら、役者を目指す人たちに向けたワークショップをやっている。
若い俳優志望者たちと話していると、歴史についての知識が不足しているのを痛感してしまう。
自分が立っている地面の下にも、さまざまな先人たちが作ってきた歴史が埋まっていて、すべてのドラマはそこが起点になっていることを知ってほしい。
私にとっては、外国に一人で飛び出していったことが、最大の勉強になった。
外国に出ると、「お前は何者なのか?」「日本人?」「日本とはどういう国だ?」と否応なく質問攻めにあい、いやでも自分のルーツと向き合わざるを得ない。
10代の頃に、小田実さんの『何でも見てやろう』や、五木寛之さんの『さらばモスクワ愚連隊』などを読み、大きな刺激を受けたことも、海外行きの動機になった。
しかし、最近は、日本人の主人公がたった一人で海外に行き、現地の人間たちとわたりあう――というタイプの物語は、小説にも映画にも少なくなってしまったように思う。
それだけ日本人が内向きになってしまったのだろうか。
『ACT!』を書いたのには、そうした空気を少しでも変えたい、という気持ちもあった。
この本を読んで、世界に飛び出していく若者が出てくれば、これ以上嬉しいことはない。