前中国大使の垂秀夫氏が、日本の政治家とのエピソードを振り返る。(聞き手 城山英巳・北海道大学大学院教授)

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安倍元首相との最後の面会

 2020年9月16日、菅義偉内閣が発足したこの日、私は永田町・議員会館の事務所で、安倍晋三前総理と向き合っていました。同年11月に駐中国大使として北京に赴任する前の挨拶に伺ったのです。

安倍晋三元首相 ©文藝春秋

 30分弱の面会ではありましたが、安倍さんは「垂大使のように中国と台湾の両方を知っている人に大使になっていただき、非常に嬉しい」と言ってくれ、習近平国家主席と李克強国務院総理との本当の関係など中国内政についても尋ねられました。一方で、大半を占めたのが台湾に関する話題でした。面会の冒頭、安倍さんはこう切り出しました。

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「その節は、母が大変お世話になりました」

 16年6月、アジア大洋州局審議官だった私は、安倍洋子さんが台湾を訪れた際に随行しました。

 この訪台に繋がったのは、前年10月に北京の天安門広場の横にある国家大劇院で行われたNHK交響楽団の公演です。自民党の二階俊博総務会長が尽力して実現したもので、二階さんが観覧したほか、中国側からは劉延東国務院副総理も出席しました。この公演では、私も二階さんのお供で会場にいましたが、とても素晴らしい演奏でした。

 翌年、今度は台湾で公演をすることになりました。これは1972年の日台断交後初めてのこと。北京公演では中国の副総理が出席しましたから、私は、台湾では蔡英文総統を招こうと秘かに考えました。

 当時は安倍政権。祖父の岸信介元総理は現職総理だった1957年に台湾を訪問しています。そこで、安倍さんの弟である岸信夫衆院議員と蔡氏を招待するアイデアについて相談し、「安倍家か岸家から、どなたかご出席頂けないでしょうか」と打診していたのです。

 それと同時に台湾側には「蔡総統が出席すれば、日本側も相応の人物が出ます」と伝えておくと、蔡氏側からは出席するとの返事。改めて信夫さんに「蔡総統が来るので、ぜひご検討を」とお願いすると、「総理と相談する」と言ってくれました。女性同士という意味で、私は昭恵夫人が適役ではないかと考えていたのですが、信夫さんからの返事はなんと、お母様の洋子さんでした。

 総力を挙げたのが安倍事務所です。秘書が総出で準備に取り掛かり、要人へのお土産選びも、逐一私とも連絡を取って決めました。N響の公演だけでなく、岸元総理が訪台した際に蒋介石総統と会談した台北市内の士林官邸や台北賓館も訪問。洋子さんは凜とされた方で、お父様を懐かしむように、ゆかりの地を回る姿がとても印象に残っています。

 安倍さんはこの時のことを覚えていて、わざわざお礼を言ってくださったのです。結果的に、安倍さんにお目にかかったのは、これが最後になりました。一時帰国の際の22年7月12日に面会のアポを取っていましたが、その4日前に凶弾に倒れてしまいました。大使着任前の挨拶で、ニコニコとした表情で気遣ってくれた姿は今でも忘れられません。