野中広務が築いたパイプ
野中広務元官房長官には若手時代から可愛がってもらい、08年に中国課長に就任した後も、半年に1回は平河町にある砂防会館の事務所を訪ねました。親しくなったきっかけは98年5月、幹事長代理だった野中さんの訪中。私は大使館一等書記官で、北京から南京、上海までずっと随行しました。
野中さんは訪中に当たり、中国側に二つの条件を示しました。一つは後に国家副主席となる曾慶紅共産党中央弁公庁主任との面会です。曾氏は江沢民国家主席の腹心ですが、当時はそれほど知られた存在ではなかった。私は早い段階で彼の重要性を外務本省に報告していましたが、まだ、日本で親しい要人はいませんでした。野中さんはそこに目を付けたのでしょう。
2人の会談は、釣魚台迎賓館で実現しました。歓迎宴の場で、私は曾氏の秘書官の隣に座りましたが、彼が簡単な日本語を話せるのを知って驚きました。野中氏と曾氏は、肝が据わっていてリスクを取るタイプ。トップではないけれど、実力は認められていました。そんな共通点から、お互い認め合っていたのでしょう。曾氏の相手は野中さんにしか務まらず、後に二階さんや古賀誠元幹事長らにパイプを引き継ごうとしましたが、うまくいきませんでした。野中さんの政界引退後には、曾氏から2人の思い出の写真をまとめたアルバムが贈られ、喜んでいました。
2人がパイプを築いていた意味は大きく、後の小泉純一郎政権時代は総理の靖国神社参拝問題のため、ほとんど首脳会談が行われませんでしたが、曾氏に連なるある人脈を通じて水面下での意思疎通はできていた。この人脈は私が開拓し、後に宮本雄二駐中国公使(後の大使)が強化されたものです。
98年の訪中で野中さんが求めたもう一つの条件は、南京大虐殺記念館の訪問でした。中国側は大歓迎でしたが、結果として野中さんには不満の残るものとなったようです。
私が中国課長になった後、野中さんは「記念館に行くと、頭を下げさせて後ろから撮られるから、日本の政治家が誰も訪問しなくなるんだ」とこぼしていました。記念館では〈遭難者300000〉と大きく書かれた壁の前に献花台が置かれ、日本の要人が訪れると、頭を下げる姿を後ろから撮影するのが恒例です。これには、さすがの野中さんも閉口したのでしょう。
あの頃、中国側が高く評価していたのが小渕恵三総理です。98年11月、江沢民国家主席が訪日し、首脳会談が行われました。ところが、この時に発表された日中共同宣言に小渕さんが「謝罪」を入れることを拒否したため、江沢民は滞在中に何度も、日本の侵略の歴史に言及しました。このため、この訪日自体は失敗だったと広く思われています。
ただ中国側は、小渕さんが首脳会談で、当時の中国の国際情勢認識に合致するような、冷戦後における多極化した国際情勢について言及したと認識しました。これが中国国内で高く評価されたのです。
翌年7月、今度は小渕さんが訪中すると、中南海の瀛台(えいだい)で江沢民と会談。ここは本当に重要な海外の要人を接遇する時に使われる施設です。しかも江沢民はこの時、一転して歴史問題をほとんど取り上げなかった。厳しい姿勢を予想していたメディアは肩透かしを食らいました。この訪中では、通称「小渕基金」と呼ばれる、100億円の日中緑化交流基金の創設も決定し、両国の交流が深まったのです。
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本記事の全文は、「文藝春秋 電子版」に掲載されている(垂秀夫「二階俊博元自民党幹事長のすごい人心掌握術」)。