日本が誇る大企業を築き上げた「創業社長」には、どこか共通するカリスマ性がある。しかし、創業社長のカリスマ性が大きければ大きいほど、その去り際、そして去ったあとには、経営権を巡って内紛が起きる。

 日本と韓国にまたがる異形の財閥、ロッテグループも“お家騒動”を経験した企業のひとつだ。創業者の重光武雄は、長男・宏之に事業承継を行う予定だったが、失敗。二男の昭夫が、創業者の父と兄を放逐してロッテグループの経営権を奪取した。

 ロッテグループでは、経営権を巡ってどんな内紛が起きていたのか。ここでは、高橋篤史氏の著書『亀裂 創業家の悲劇』(講談社)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く

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写真はイメージです ©MIKI_Photography/イメージマート

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後継体制作りに手をつけた重光武雄

 2009年7月、カリスマ経営者として創業以来半世紀以上にわたって超然たる存在であり続けた重光武雄は、米寿を間近に控え、ようやく後継体制作りに手をつけた。日韓ロッテグループの要であるロッテホールディングスの社長職を譲り、会長に回ったのである。後任社長として白羽の矢を立てたのは住友銀行出身で関西の名門ロイヤルホテルの社長を務めていた佃孝之(つくだたかゆき)だった。

 この時、重光は副会長ポストを設け、宏之と昭夫にそれぞれ与えている。菓子事業を柱とする日本ロッテは宏之が、ホテルや百貨店、化学へと幅広く展開し日本をはるかに上回る規模となった韓国ロッテは昭夫が、それぞれ責任者を務める形だ。息子ふたりの体制へと繋ぐための、佃はいわば中継ぎ役だった。

 これにより重光武雄自らが日韓を往復して現場を直接指揮するような場面はなくなっていく。2011年頃には日本を離れ、韓国ソウルの「ロッテホテル」34階に置かれた執務室兼居室にほぼ籠もりきりとなった。佃や宏之、昭夫といった日韓の幹部はかわるがわるそこを訪れ経営報告を行うのが決まりだった。それから約3年、安泰と思われていた日韓ロッテグループに激震が走ることとなる。

辞任を求められた宏之

 2014年12月26日、ロッテホールディングスは西新宿の本社ビルで取締役会を開いた。会議室に顔を揃えたのは佃、宏之をはじめ6人の取締役。すべて日本人だ。韓国ロッテの代表は昭夫だけで、ソウルから電話で参加した。武雄は欠席である。

 じつは、4日前にも取締役会は開かれていた。その場で宏之は佃らから強く辞任を求められていた。宏之肝いりで3年前に始めた販売情報システムの開発が頓挫し、数億円の損失が出そうなことが理由だった。