現場は一軒家がコの字に五軒並んだ真ん中の家。言われた通りに現場に向かう。
現場まで十メートルくらいまで近づいた時、風に乗って僕の鼻に異臭が飛び込んで来た。五軒並んだ住宅地なので、まだどの家から臭っているかはわからない。だが、五メートル手前で、異臭は現場となるこの家から漂って来ていると確信めいてくる。
玄関の前まで来ると、ドアを開けずとも僕の頭の中で確定した。ここが「腐乱現場」だということが。
トラックに駆け戻り、「腐乱じゃないですか」とサプライズ好きの社員に言った。本当は知っていて、最悪なサプライズを僕に仕掛けて来たんじゃないだろうかと疑ったからだ。しかし、「不動産屋からは何も聞いてません」と怒りに満ちた目をして社員は答えた。
本当に知らされていなかったようだ。
黙って腐乱現場を片づけさせる、「ダマ腐乱」だ。
これが一番頭に来る。
腐乱現場は、防護服に防塵マスク、長靴にゴム手袋など完全防備が必要になる。
加えて、もっとしておかなければならない準備がある。心の準備だ。
腐乱現場は、心の準備を万全にしたとしても、作業が終わる頃には精神的疲労がとんでもなく残る。それなのに、黙ったまま当日やらせる不動産屋の気がしれない。
床が黒い海
装備を近くのホームセンターに買いに行き、全員ズーンと落ち込みながら防護服に着替える。そして、玄関に向かうにつれ強くなる腐乱臭を掻き分けるようにして玄関ドアの前に立つ。
すると、隣の家から住人の方が出て来た。
鼻を服の袖で覆いながら切実さをにじませて、「よろしくお願いします」と僕らに頭を下げた。関係のないお隣さんの悲痛な願い。その言葉に背中を押され、覚悟を決める。
預かった鍵でガチャリとドアを開けた。
「ダメダメ、入っちゃダメ! すぐに離れて! ここに居てはダメ!!」。ドアを開けた一瞬で、僕の脳と身体が僕に強く訴えかけてきた。
今振り返っても、そこは僕が経験した腐乱現場の中でも最も強い腐乱臭だった。
先ほど持ち直したはずのやる気が一気に削がれ、泣きたくなった。
中を覗くと、真っ黒な玄関に、真っ黒な廊下。床一面が、「黒」に埋め尽くされていた。
……蝿だ。
遺体にたかって増え続けた蝿が死んで、床を黒い海にしていた。
この光景を見て社員がキレた。
「ふざけんな!」