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「都知事を招いて、しかも選挙期間中にあんなにありがたがるなんてちょっとカッコ悪すぎるよね」

 しかし、その上で批評精神を持つのがプロレスファンの良いところ。権威なんてぶっ飛ばせ!とやるのもプロレスの力。斎藤文彦氏は今回都電プロレスをおこなったDDTについて、

「都知事を招いて、しかも選挙期間中にあんなにありがたがるなんてちょっとカッコ悪すぎるよね。どうせやるなら小池氏のライバル候補を呼んだほうがプロレスの痛快さじゃない?」

 そう、せめて「おい都知事、テレビ討論会ぐらい出ろよ」ぐらい誰かにかましてほしかった。そう考えると猪木は確かに政治的な人だったが、猪木だったら客前で都知事にあれだけヘコヘコしただろうか? 強がりとやせ我慢も猪木の矛盾した魅力だったからだ。それがミエミエであればあるほどに。

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都電プロレスに臨む前に笑顔を見せる小池都知事 ©AFP=時事

 少年時代の私は猪木を見て矛盾を学んだ。猪木を真剣に応援して不透明な結末に怒っているのに、一方でこの試合の「政治的意味」も同時に考えていたからである。猪木は矛盾の塊かもしれないが、次第に私も矛盾を小脇に携えていたのだ。

 このときの経験から言えることは、できることならデカい矛盾を10代のうちから抱えたほうがいいということ。後に大人になり、人間の営みはそう易々と答えが割り切れるものばかりではないことを眼前にしたとき、猪木の矛盾を早いうちに経験しておいてよかったと何度も思った。猪木と向き合うことは矛盾と向き合い、考えることなのだ。

 私がプロレスを好きなのは「半信半疑」の中で悶え、苦しみ、よろこびを見つけるからなんだと気づいた。こんなジャンルは他にあまりないと思う。

多様性と批評精神こそがプロレス

 だから今回の都電プロレスが、小池都知事の選挙期間中の公務に「まんまと使われた」もしくは「使わせた」点についてプロレスファン内で賛否両論があっていい。私は「否」の立場である。そしてプロレスを馬鹿にする人がいれば怒ればいい。同時進行でいろいろ考えることはできる。

 最後に。アントニオ猪木が死んだ直後、長州力が語った言葉を載せておきたい(拙著『教養としてのアントニオ猪木』より)。

《よく政治家がプロレスを引き合いにして、「プロレスみたいな八百長をやっているんじゃない」「まるでプロレスみたいじゃないか」って言うだろ。》

《「プロレスと同じじゃないか!」って何が同じなんだって。そういうふざけたことを言う政治家、おまえらは真剣に人生をマッチメイクしたことがあるのかって。俺たちは真剣にマッチメイクをやっていたんだよ。それを「どうせプロレス」って片づけられたくない。そこだけは言っておかないと。》

 これがプロレスラーだ。だからプロレスファンも真剣に批評精神を持つ。多様な見解や価値を認める。このジャンルの面白さである。