1ページ目から読む
3/4ページ目

 よだかは鷹からイジメられていました。ある日、鷹は、よだかが自分と似た名前であることに腹を立て、「市蔵」という名前をよだかに押し付けようとします。そして、改名しないなら殺すと脅迫します。鷹はまったくの自己中です。しかし、鷹と戦っても、よだかに勝ち目はありません。

 その日もよだかは虫を食べていました。彼は自分が虫を食べていることに対して無自覚でした。それは、日々の営みのなかで当たり前のように繰り返されることであり、特に意識する必要のない些細なことでした。しかし、突如として、自分の口のなかで殺される虫の存在を意識するようになってしまいます。そしてその瞬間に、非常に強烈な絶望感に襲われてしまうのです。彼は次のように言います。

 ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。

ADVERTISEMENT

 こうしてよだかは、自分の住処を離れ、太陽へと昇っていき、燃えてしまいます。

自己中がそれ自体で悪ではない

 ここには、宮沢賢治に特有の、仏教的な世界観が現れていると言われます。よだかが絶望したのは、自分が虫を殺していることへの罪悪感でもなければ、自分が鷹に殺されることへの恐怖でもありません。むしろ彼は、どんな生物もエゴイズムを本能としており、他者に対して暴力を振るうのであり、そして自分もその輪の中に組み込まれ、そこから逃れられないことに絶望したのです。

 だからこそよだかは、生物であることをやめることで、この暴力の連鎖から脱出することを試みました。もっともそれは、この作品のなかでは、自殺を指すわけではありません。よだかが何を試みたのか。それは、実際に作品を読んでみてください。

©AFLO

 とはいえ、自己中をそれ自体で悪だと見なしてしまうと、それは生存すること自体を悪とする発想へと、どうしても行きつきます。なぜなら生物は、自分以外の生物に暴力を振るわない限りは、生き残ることができないからです。

 私たちは、見かけの上では他者と協力しているように見えても、実際には、自分の目の前にいない人を搾取していますし、あるいは人間以外の動物を殺して食べています。そこには明らかな自己中の暴力が発露しているはずです。もしも自己中がそれ自体で悪なら、そんなことをすべてやめなければなりません。しかし、それは生きることをやめることに等しいのです。

 実際には、こうした思想こそが正しい、と見なす立場もありえます。しかし、善悪の観念が社会契約によって生まれてきた、と考えるホッブズの思想に従うなら、そうした結論はやはり極端だということになるでしょう。私たちは、自己中だからこそ、他者に協力することができるのであって、自己中そのものは善でも悪でもないのです。