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 ホッブズによれば、人類の歴史において出現してきた権力は、すべて、こうしたプロセスのなかで自然に発生してきました。たとえば、村の首長や、国家の王の権力も、同じような過程を経て生まれてきたのです。

 権力は、決して神から与えられたものではなく、人々が合理的に生き残ろうとした結果、必然的に出現してきたものである―彼はそうした権力のあり方を「リヴァイアサン」と表現します。リヴァイアサンとは、旧約聖書に登場する海の怪物ですが、それは、たくさんの互いに協力する人々による、束ねられた力を表しています。

 人間は対等な力を持つからこそ、殺し合ってしまうのです。そうであるとしたら、圧倒的な力を持った存在が出現すれば、ゲームバランスが崩壊し、戦争状態はストップすることになります。そうした圧倒的な力こそがリヴァイアサンとしての権力なのです。

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 こうした議論によって、ホッブスはなぜ人間が自らエゴイズムを制限し、ルールを守り、他者と協力できるようになるのかを説明しました。ただし、ここで注意が必要です。権力に服従した人間は、決して、エゴイズムそのものを放棄したわけではありません。むしろ、エゴイズムに駆られているからこそ、権力に服従しているのです。

 なぜなら、服従する理由は、何よりもまず自分の生命を確保することにあるからです。人間がルールを守って他者に協力するのは、そうすることが自分にとってもっとも利益があるからでしかありません。

 こうしたホッブズの議論は、「社会契約論」と呼ばれ、人間がいかにして社会を形成したのかを説明する理論として、歴史的に極めて大きな影響な影響を与えました。もっとも、彼の考えには色々と問題があり、その後の思想家たちによって様々な修正が施されます。しかし、人間の本質をエゴイズムのうちに見定める現実主義的な視点を保ちつつ、そこからどのようにして倫理が立ち現れてくるのかを説明できる点で、非情に優れた考え方です。

よだかは「改名しないなら殺す」と脅迫される

 ホッブズの思想の長所の一つは、自己中がそれ自体で悪ではない、と考えることができる点です。もし、自己中そのものを悪だと見なしてしまったら、生物の本能は自己中なのだから、生きること自体が悪である、という非常に極端な思想へと陥りかねません。

 自己中そのものを悪とすることが、私たちにとってどんな意味を持つのか――それを問うた作品として、宮沢賢治の『よだかの星』があります。主人公である鳥のよだかは、毎日虫を食べて生きています。モデルとなっている現実の鳥類としてのヨダカは、口を開けたまま空を飛び、口の中に飛び込んできた虫をそのまま食べる、という習性があるそうです。この作品のなかのよだかも同じようにして生活しています。