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 言うまでもなく、私は教室で目を付けられることになりました。「調子に乗っているヤツリスト」に入れられ、「イケてる」生徒によって構成される共同体には、参入することが許されませんでした。

 幸いなことに、私の高校にはいじめがなかったので、特に辛い思いはしなかったのですが、「戸谷君って珍しいよね」という理由から、「珍太郎」というあだ名をつけられ、「珍さん」と呼ばれて3年間を過ごしました。そのあとの人生で、そんなふうに空気を読めないことでいろいろと苦労しましたので、今となっては後悔しています。

 なんで、あのとき私は、わざわざ制服を着崩していたのでしょうか。いま思い返すと、たぶん私は、そこにある空気を破りたかったのではないか、という気がします。つまり、この人は制服を着崩して良くて、この人はいけないという、暗黙の了解に従いたくなかったのです。

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 私たちは、日常生活において、多かれ少なかれ、空気を読んで生きています。それに対して、空気を読めない人は、それだけで鼻つまみ者として扱われてしまいます。空気を読まないことは、たとえ誰も傷つけていなくても、空気を読んでいないというただその理由だけで、まるで悪いことをしているかのように扱われてしまうのです。

「空気」の同調圧力

 でも、なんで私は珍太郎などと呼ばれなければならなかったのでしょうか。

 私が制服を着崩していても、教室の中の誰も困っていなかったはずです。生活指導の先生は若干困っていたかもしれませんが、でも別に、人を傷つけていたわけではありません。私は、制服を着崩していた以外は、いたって品行方正な生徒でした。エナメルバッグの中に入れていたのは、ナイフや警棒ではなく、無害な高校演劇の台本なのです。

 それでも、教室のなかの空気を読まなかった私は、なんだか悪いことをしているかのような扱いを受けていました。私はそこで、誰も傷つけていないわけですから、その悪さは、空気を読まなかったことそれ自体にあるとしか、考えることができません。空気を読まなかった結果、誰かが嫌な思いをしたから、それは悪いことなのではないのです。空気を読まなかったこと自体が、悪いことだったのです。