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時代を支配する空気

 もっとも、学校を支配している空気からは、一歩でも学校を出れば逃れられます。だから、そうした空気が息苦しくなったら、そこから逃げ出せばいいのです。しかし、学校の外側には、別の空気が広がってもいます。国や時代を支配する空気から逃れることは、それほど簡単ではありません。

 スコット・フィッツジェラルドの代表作『グレート・ギャツビー』は、そうした空気のなかで人がいかに生きるべきかを問いかける作品であると言えるでしょう。

 主人公は、大学を卒業した後に戦争に従軍し、その後、就職のためにニューヨーク郊外のウェスト・エッグという街にやってきた若者です。彼の新居の近くには大豪邸が居を構えていました。その住人が、ジェイ・ギャツビーと呼ばれる人物です。

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 ギャツビーは豪ごう奢しゃな人物でした。毎晩のようにパーティーを開き、客人をもてなして、大騒ぎしていました。しかし、その素性は謎に包まれており、誰も彼が何者なのかを正確に知る者はいません。主人公は、彼と少しずつ交流を持つようになり、彼の秘めたる想いを知ることになります。

 この作品の面白さを十分に味わうには、それが書かれた背景を知ることが必要です。『グレート・ギャツビー』が発表されたのは一九二五年。当時、アメリカは空前の好景気の最中にありましたが、同時にそこには、どこか退屈した空気が蔓延していました。たしかにお金は儲かるし、生活も豊かになる。しかし、その後に素晴らしい幸せが待っているわけではない。結局は、同じような毎日がこれからも繰り返していくだけであり、生きがいのない日々をやり過ごすしかない―そうした沈滞した雰囲気で満たされていたのです。『グレート・ギャツビー』の物語の舞台にも、まさにそうした空気が充満しています。

 その最中にあって、ギャツビーは懐かしき「アメリカン・ドリーム」を信じる男として描かれるのです。もう誰からも信じられていない時代遅れの価値観を持ち、自分の力でどんな夢でも叶えられると信じる大金持ち―それがギャツビーです。だからこそ、物語のなかで、彼は明らかに空気が読めない人間として語られます。

 ギャツビーは、一見すると華麗でカッコいいですが、大事なところではドタバタしていて、時々メッキが剥がれます。彼は明らかに不自然なのです。しかし、その不自然さは、かえって彼を取り巻く世界の退屈さを際立たせます。

 それを象徴するのが「灰の谷」と呼ばれる場面の描写です。ある日、ウェスト・エッグからニューヨークに電車で向かっていた主人公は、車窓からその場所を眺めました。そこでは、農場や庭園や家がすべて灰でできており、そこで生活する人々もすべて灰色をしているのです。このシーンは、物語の前後と直接関係がなく、かなり唐突に差し込まれている、非現実的な場面です。しかし、だからこそとても印象的であり、世の中の沈滞した空気を見事に表現しているように思えます。

 灰は、何かが燃えた後に残ったものです。たとえばそれが、この物語の文脈では、アメリカン・ドリームなのでしょう。「灰の谷」と化した現在のアメリカは、いわば、その夢が燃えてしまった後の灰のようなものである、だから、誰もが同じように浮かない顔で、味気ない毎日を送っている―そうした作者の思いが、この場面の描写には込められているように思えます。

 そうであるとしたら、空気が読めないギャツビーは、そうした重い空気に気づかせてくれる存在でもあるのです。私たちは、ギャツビーを空気が読めないやつだと笑います。でも、そうやって笑っている私たちは、果たして幸せなのでしょうか。彼を小馬鹿にできるほど、大した人生を歩んでいるのでしょうか。この作品は、当時のアメリカ社会に対して、そうした痛烈な問いを投げかけるものでした。そしてその問題提起は、時代を越え、国境をも越えた現代の日本社会においても、以前として色褪せていないように思えます。