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 では、空気を読まないことが、なぜ、それ自体として悪いことになるのでしょうか。

 それはおそらく、私が空気を読まないことによって、それまでその教室を支えていた不文律が、いくから効力を失ったからでしょう。

 たとえば、お世辞にも「イケてる」とは言えない私が、制服を着崩していたら、もう「制服を着崩していいのはイケている生徒だけだ」という不文律は機能しなくなります。そしてそれによって、「制服を着崩しているということは、あの人はイケているんだ」という、不文律から逆算した生徒への評価も、できなくなります。そんな評価が機能停止に陥っても、私は何も困らないのですが、多分「イケてる」生徒たちにとって、それは困ることだったのでしょう。

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 しかし、よく考えてみてください。なんで、「イケてる」生徒だけが制服を着崩すことができ、「イケてない」生徒にはそれが許されないのでしょうか。そもそも「イケてる/イケてない」はどのように区別され、その境界線はどこに引かれているのでしょうか。

 サッカー部が「イケてる」のはよしとしましょう。たしかに「イケて」いた気がします。では卓球部はどうでしょうか(もちろん僕は卓球部も「イケてる」と思っています)。パソコン部はどうでしょうか(「イケてる」に決まっています)。その判断を誰がどのようにして行うのでしょうか。そして、その不文律を決めたのは誰であり、それを承認したのは誰なのでしょうか。

©Paylessimages/イメージマート

 そんなことを聞かれても、きっと誰も答えられないでしょう。でも、それは考えてみればおかしな話です。だって、自分でもよくわからないものに、従っていることになるのですから。そしてここに、「空気を読む」ということの興味深い特徴があります。すなわち、周囲に同調して行動しているとき、私たちはそのように行動することが正しいという確信を持っているわけではありません。正しいか正しくないかはわからないけれど、とにかく「みんな」がそれに従って行動しているから、自分も同調してしまうのです。

 そうであるとしたら、空気を読むことはある意味で怖しいものです。なぜなら、正しくない行動に対して人々が同調することも、容易に起こりえるからです。たとえばその典型が、いじめでしょう。教室でいじめが起こるとき、多くの場合、いじめに加担する生徒の大多数は、ただ周囲に同調しているだけです。いじめられている生徒に対して、はっきりとした憎悪を抱いていたり、そのいじめを正当化できるだけの理由(そんなもの存在するはずがありませんが)を説明できたりする生徒は、ほとんどいません。

 だからこそ、ただ空気を読んで行動しているだけだと、知らず知らずのうちに暴力に加担することにもなりえるのです。