「あの五十七年組から次官が出たら大蔵も終わりだね」。ちょうど20年まえの週刊文春1998年5月28号に、こんな大蔵省(現・財務省)職員のコメントからはじまる記事がある。そんな、ひどい言われようの「五十七年組」から次官にまで登りつめたのが福田淳一だ。就任から一年もしないうちにセクハラで辞めることになるのだが。
佐川、福田、迫田 「時の人」だらけの同期たち
「五十七年組」、つまりは1982年(昭和57年)に大蔵省に入省したキャリア官僚たちには、福田氏のほか、森友学園問題で国税庁長官を辞めた佐川宣寿や、この件で国有地売却交渉を進めていた時の理財局長・迫田英典がいる。「時の人」だらけである。
また1982年といえばアイドル当たり年で、中森明菜、小泉今日子、石川秀美といった「花の82年組」がデビューするのだが、アイドルという点では「五十七年組」も負けてはいない。なにしろ片山さつき先生がいるのだから。
「このメンツ、濃いわー」でいえば、このメンツは濃い。「同期最高!!出会いに感謝!!!」はしていないだろうけれど。
なぜ「呪われた五十七年組」なのか?
この「五十七年組」というのは、入省時からすでに話題であった。“官庁の中の官庁”といわれる大蔵省/財務省、そこに入るのはエリート中のエリートである。それが時の大蔵大臣、渡辺ミッチーが「部屋にこもっているような青白いエリートじゃなく、変わったのを採れ」と命じる。かくして体育会系や女性が採用され、当初は「異色の人材」が集まったと、もてはやされる。
ところが一転、その後に「自殺者あり、逮捕者あり、不祥事で退職あり」の、そんなこんなで「この期からは次官が出ないのではないか」と言われるにいたる(注)。逮捕者というのは、「ノーパンしゃぶしゃぶ」などでの接待汚職事件で逮捕された唯一のキャリア官僚を指す。冒頭の週刊文春はその騒動の最中に出たものだ。そんなこともあって記事では「呪われた五十七年組」と評されるのであった。