衣笠祥雄さんがお亡くなりになった。
スポーツ新聞を全紙買ったが一紙もまだ読めないでいる。この世で生きるといううえで、生きていくといううえで、衣笠さんからはとてもたいせつなことを教えていただいた。ありがとうございます。
1960年代にカープで四番を打たれていた三塁手、興津立雄さんから衣笠さんのお話を伺ったことがある。興津さんは衣笠さんの教育係で部屋は衣笠さんの真下だった。毎晩毎晩、窓から上り下りして遊びに行く衣笠さんに興津さんは注意をした。アメリカに帰られたお父さんに会いに行くんじゃなかったのか、と。遊び歩いていたのでは無理だぞ、と。衣笠さんは猛練習するようになった。アメリカに行くという目標ができたのだ。独学で英語の勉強もするようになった。
衣笠さんはルー・ゲーリック選手の記録を越えて連続試合出場世界一となった。カル・リプケン選手が衣笠さんの記録を抜いたときにはカウフマンスタジアムで始球式でマウンドに立ち、試合中にはスタンディングオベーションも受けた。野球でアメリカに行くのも人それぞれ。衣笠祥雄選手が選んだのは連続出場だったのである。衣笠さんが必ず色紙に記した「努力」の文字は自らに言い聞かせてきた言葉でもあるのだろう。なお、ニューヨーク・タイムズに掲載された衣笠さんのインタビューの中には興津さんの名前と興津さんに対する感謝の言葉を見ることができる。人と人との出会いはたいせつである。
映画の現場で出会った小学生の「師」
私は小学生の頃はヤクルトファンだった。
突然話が変わったが、実は変わったわけではない。がまんして読み進めていただきたい。
当時はヤクルトアトムズ。鉄腕アトムがキャラクターだったからである。だが好きな選手は阪神のカークランドと藤田平だった。中学生の頃は近鉄が好きだった。マークがかっこよかったからである。そして高校生からあと現在まで、40年ほどカープファンである。
小学生の頃、一試合一試合の勝ち負けに一喜一憂していたかというとそれはしていたかもしれないが、いまとは違う気がする。
いや、いまは努力して激しく一喜一憂しないように努力しているが二年ぐらい前までは激しく一喜一憂していた。おもえば、年々一喜一憂が激しくなっていたと思う。負けたらその夜はもうなにも手につかない、テレビも見れない本も読めない、ましてや眠ろうにも眠れない、それぐらい悔しかったりしはじめたのはやはり大人になってからだ。
一昨年の夏である。私はある映画の現場である俳優と出会った。私は脇役で彼は主要な役だった。私は大人で彼は子供だった。主人公の少年時代を彼が演じていた。彼は小学生であった。
映画の撮影は朝が早い。私はスポーツ新聞を読んでいた。
早朝一発目の撮影でスタッフはもくもくと準備していた。知らぬ同士が集まってきてもくもくと撮影開始に向けて動いている。適度の緊張感もあるいい空気である。
「広島は強いですね」
彼、小学生の彼のたぶん第一声である。私が誰かと野球の話をしているのを聞いていたのだと思う。彼が私に話しかけてくれたのだ。
テレビで見たことのある、利発そうでかわいらしい、まっすぐな眼差しの彼がいた。
彼は広島の強さを語るためにその少し前の巨人戦、菊池選手が最終回にホームランを打って同点に追いつき、新井選手がサヨナラ打を放った試合を例にあげた。私もまったく同感だったので話が弾んだ。ひととおり話してから、ふと気になったので、
「広島ファンなの?」
私が尋ねると、
「いえ、巨人ファンです」
と彼は答えた。
私は驚いた。そして、ちょっと待って、と彼を制した。私は次のような言葉で彼を讃えた。
「きみは凄い。えらい。いや、すばらしい。ふつう、自分の応援しているチームがあんな感じで負けたらその記憶を消そうとする人もいる、腹立てて暴れる人もいる、いや、そうでなくても語りたがらないものだ。人によってはなかったことにする。そもそも負け始めたらテレビのチャンネルを変える人もいる、でもきみは違う。さすがだね。えらい!」
そして、尋ねた。
「好きな選手は誰?」
彼は答えた。
「ヤクルトの山中選手です」
私はまた驚いた。
巨人の選手が好きなのではないのか?
驚きすぎてもはや背筋が伸び始めていた私に彼は言った。
「アンダースローのピッチャーが好きなんです」
感動で全身が緊張していた。再生の喜びを私はすでに感じていた。彼、と記しているが、私にとって彼は師である。