母娘で暮らすには十分な地代...群がった地上げ業者
事件の経過を追う前に、まずは地主である高橋家の歴史と土地の状況を簡単に振り返っておこう。
教師だった父親が他界すると、高橋家が所有してきたマッカーサー道路から通り一本入った新橋4丁目の土地の一角に、4階建てのテナントビルが建てられた。
それが1961年11月のことだ。もともと残された母と娘には都心にテナントビルを建ててひと儲けしようというつもりなどなかったのだろう。ビルを建設したのは高橋家とは関係のない「有限会社吉川加工」で、同社がそのまま建物を所有し、テナントを入居させて高橋家に借地料として敷地の地代を支払ってきた。
一般に土地の賃貸料は固定資産税の3~4倍といわれる。新橋駅に近いこのあたりの地代は、安く見積もっても一坪あたり月額1万5000円以上する。平均的には2万円前後だ。ビルの敷地が40坪とすると彼女たちにはひと月80万円前後の地代が入ることになり、母と娘の二人で暮らすには、十分だった。
バブル期は50坪でひと月数百万もザラ
実際の地代はあくまで地主と借り主のあいだで決められるため、相場の何倍というケースもめずらしくない。とりわけ90年前後のバブル期の相場は50坪あれば地代がひと月数百万円というケースもざらだった。
だが、逆にバブル崩壊後は、そうはいかない。古ぼけたテナントビルは、櫛の歯が欠けるように店子が出ていった。東京都内で幅広くビジネス展開している、ある不動産ブローカーに会うと、新橋事情に詳しかった。こう話した。
「高橋さんはバブル崩壊後にも地代を倍に上げようとしたみたい。でも、ただでさえテナントが埋まらないビルのオーナーにしてみたら、値上げなんてとんでもない。それで揉めているうちにお母さんが亡くなってしまった。それでもともと賃貸業などやる気のない高橋(礼子)さんは新橋を離れてしまったのです」
母の死後、娘は「町内会費を滞納」「帝国ホテルなどを泊まり歩く」
本来、手元に現金があれば、建物の所有者に立ち退き料を支払ってビルを建て替える手もある。が、彼女にそこまでの事業欲があるわけでもなく、またその気もなかったようだ。くだんのテナントビル取引にかかわった不動産業者の一人、鶴橋保(仮名)が、こう打ち明けてくれた。
「高橋さんはちょっと変わった人でした。20年前にお母さんを亡くした彼女は帝国ホテルで一周忌の法要を済ませると、家を出ていったのです。で、近所の商店街との付き合いもしなくなった。町内会の行事に出てこないのはともかくとして、町内会費まで滞納するようになって町内会が困っていたそうです」
彼女は自宅に寄り付かなくなり、次第に生活が乱れていく。かつて高橋家の所有していた葉山の別荘なども放置し、放浪暮らしを始めた。新橋に近い帝国ホテルや東京プリンスホテルを定宿にし、渋谷のエクセルホテル東急にまで足を延ばして都内の高級ホテルを泊まり歩くようになったという。
その情報を嗅ぎつけたのが、再開発を目論む地上げ業者であり、地面師だった。