「あのアパートを見ると事件を思い出さざるを得ないんです。だからあんまりあそこを通らないようにしちゃう。つらいですから」。2018年3月に起きた「目黒5歳女児虐待死事件」。父親の船戸雄大(当時33歳)と母親の優里(同25歳)…残忍な両親の犯行を止められなかった近隣住民たちは何を思うのか。ノンフィクションライターの高木瑞穂氏と、YouTubeを中心に活躍するドキュメンタリー班「日影のこえ」による新刊『事件の涙 犯罪加害者・被害者遺族の声なき声を拾い集めて』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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香川での生活は破綻、逃げるように東京へ
結婚後、2人は揃って水商売から足を洗い、優里は専業主婦に、雄大は香川ではCMが流れるほど有名な食品関連会社に職を得る。善通寺市内のアパートで、地に足をつけた一家4人の暮らし。だが、平穏な暮らしはほどなく破綻する。
「幸せそうに楽しそうに暮らしていたのは最初だけです。すぐに結愛ちゃんが泣き叫ぶ声が聞こえてきました。尋常じゃないほど大きな声でした。それとよく雄大と結愛ちゃんが家の前で一緒に遊んでいたんですけど、あれは遊んでいたというより監視していたという雰囲気でしたね。なんというか、歪んだ親子に見えました」(近隣住民)
結愛に対する、しつけという名の虐待は結婚と同時に始まっていた。一度叱りはじめると雄大は止めどない。束縛が激しい性格からして徐々に高揚し、説教は数時間も続いた。従わなければ手も上げる。となれば、社会が見逃すわけがない。
「児童相談所の目に留まり、結愛ちゃんは、一時的に保護されることになりました」
前出の近隣住民によれば、児相の職員にも「随分と高圧的」で、俺は間違ったことをしていないとばかりに食ってかかることもあったらしい。一方、優里は雄大の言いなりで、思考が停止したかのごとく夫の言動全てを肯定した。親の反対を押し切ってまでシングルマザーであった自分を受け入れてくれた。その負い目から、反論はもとより助けることすらできなかったのだろうか。
私が獄中の雄大と優里に手紙を送ったのは、2人の心情を解き明かしたかったからだ。が、雄大からは一切の連絡は来ず、優里からも受け取り拒否されれば、なす術なし。
ともかく、2人は善通寺市での生活をわずか2年で見切りをつけ、2017年12月、居心地が良かった三軒茶屋で築いた人脈を頼りに、一家で東京に転居する。社会のルール上は正しいとしても、雄大からすれば自分のしつけに歯向かう児童相談所は邪魔な存在だったに違いない。目黒区東が丘への流転は、現実社会からの逃避でしかなかった。
事件後から通い続ける東が丘のアパートからは、1ヶ月もするとマスコミの姿は消えていた。が、誰かが思いを巡らせているのだろう、手向けられた花や菓子が途絶えることはなかった。
「あのアパートを見ると事件を思い出さざるを得ないんです。だからあんまりあそこを通らないようにしちゃう。つらいですから」