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負ける戦争を止められなかったというエリートゆえの苦悩

東京地裁に勤めていた乾太郎はその模擬内閣で司法大臣というポジションとなり、他のメンバーと共に活動したと思われるが、どういう発言、主張をしたかという記録は残っていない。戦後になっても本人も明かしていない。実は、もともと司法省からは他の人物が推薦されていたのだが、健康診断で結核であることが判明し、乾太郎が代理で選ばれたのだという。

乾太郎たち官僚は、その頭脳と知識を活かし「戦争したら、日本は負けます」「そのうち石油が補給できなくなるし、ソ連が参戦したら詰みます」と、かなり正確な予測をしたのだが、その報告を受けた政府中枢、軍部は「日清、日露戦争のように戦争はやってみなきゃわからん」と無視して開戦へと突き進んだ。これではシミュレーションの意味がない、と総力戦研究所のメンバーが落胆、失望したことは想像に難くない。

ドラマでも航一がそのトラウマを抱え、戦争で家族を亡くした人たちに「ごめんなさい」と泣いて謝っていたように、わかっていたのに避けられなかったという悔しさ悲しさは、乾太郎の人生に影を落としただろう。乾太郎はこのミッションを与えられる前、昭和15年(1910)の「河合事件」と呼ばれる思想弾圧事件の裁判では、3人の裁判官のひとりとして、軍部批判をして著書の発禁処分を受けた東京帝国大学経済学部教授・河合栄治郎を無罪にしている(のちに控訴され有罪に)。思うところが何もなかったはずはない。

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戦争で心の傷を負った乾太郎と嘉子は自然に惹かれ合った

ちなみに乾太郎は昭和19年9月から領事に任命され、中国の北京に異動している。資料では確認できないが、翌年の終戦の瞬間を北京で迎えたとすると、日本に引き揚げてくるまでにも命懸けのエピソードがあったのではないだろうか。

一方で和田嘉子(当時)も、夫が戦病死し、その死に目に会いに行けなかったことをずっと悔やんでいた。ドラマで描かれるように、二人が戦争で負った心の傷を共有し、それを癒やすように愛情を寄せ合い結ばれたというのは、リアルだったのかもしれない。