相手を自分の一部のように扱い、相手の名誉を自分事にしたい
魅力ある相手を自分の思うままにしたい。相手を自分の一部のように扱い、相手の名誉を自分事にしたい。鈴木、浩子、美和子の三人が清家に共通して抱いているのはそんな名付け難(がた)い感情だ。
親子、夫婦、友人、師弟、どんな人間関係でも名付け難い感情は忍び寄り、いつのまにか心に巣食って、相手を支配したがり、時間をかけて関係をゆがませていくやっかいな感情。感染すると体内で増殖していくウイルスのようだ。それも感染力は半端(はんぱ)なく強い。
たとえば単純な自己顕示欲ならSNSで「こうありたい理想の自分」をアップすれば、気軽に承認欲求を満たせる。誰にも迷惑はかけないし、誰も支配しないのだから、はるかに健康的だ。
どんな人も他者への嫉妬、妬みや嫉みから逃れられないもの。名付け難い感情が生まれるのは相手が自分の思い通りにならないからだろう。
そこで自分が相手と一体化すれば、名付け難い感情は生まれなくてすむ。誰も自分自身に嫉妬したり妬んだりはしないのだから。
つまり空っぽに見える清家をコントロールし、思い通り政治家になってくれたら、彼をコントロールしている主の虚栄心は満たされるということ。
清家一郎という政治家は、完璧にコントロールされてしまった!?
ここまで完璧にコントロールされてしまっている空っぽの清家が気の毒になってしまう。
冒頭で政治家と俳優は似ている、と記したが、清家は政治家より俳優に近い気がする。
わたしの考える名俳優とは「演技しない」俳優。与えられたセリフを自分の口を通してオリジナルのものにしてしまう。俳優本人と役柄の境界があいまいになり、俳優の言葉か役柄の言葉か、わからないくらい「演技」を感じさせない人。
もうひとつ、自身が俳優の端くれとして言うと、役柄を演じるとは、自分自身のパーソナリティを封印するのとセットだ。
どんな人でも「無(な)くて七癖(ななくせ)」というが、俳優はその癖すらも無くし、役柄の癖を取り入れていく。歩き方、笑い方、口癖……役柄に浸透することで自分の気配を消していく。
高校の生徒会長選挙で、鈴木の書いたスピーチ原稿を自分の言葉にしてしまった清家はまさに天性の名俳優だった。
どんなホラーよりも恐ろしい結末
先に解説を読まれている方には、この先は本書の読了後にお願いしたい。
第四部で浩子は自らについて、そして政治家となった息子一郎について語り始める。ここまでの物語の見え方が変わる秀逸な構成だ。
異国から母娘で日本へたどり着き、異端の存在として苦労を重ねてきた母の気持ちを背負い、自分の欲望も他人の感情もすべてを思い通りに操りたい、と思うまでになったこと。
浩子自身が、母にコントロールされてきた過去を持ち、息子の父である和田島も思いのままにしてきたこと。
圧巻なのはエピローグでの清家の独白。
彼がカリスマ的魅力の持ち主であるのは明白だ。ゆえに清家に魅せられた他者は彼を自分のコントロール下に置きたくなるのだろう。
言い方を変えれば、清家という存在によって他者の心は操られてきた。
そして清家は長けた演技力で官房長官につき、次は内閣の頂点の座に手をかけようとしている。
いまや彼を操る人はいない。では何のために政治家を演じ続けているのか。
大きな権力を手にした後、何をしようというのか。そして何を操ろうとしているのか。
どんなホラーよりも恐ろしい小説だ。
中江有里(俳優・作家・歌手)