ジャニー喜多川の幼少期は「空白の16年」として、本人の口からもほとんど語られていない。しかし、彼の“倒錯”の原点は、その幼少期にあったのではないか。アメリカ在住のノンフィクション作家・柳田由紀子氏は、ジャニーが若き日を過ごした和歌山のある島を訪れた。
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碧の海に浮かぶ「僕の島」
名古屋と紀伊勝浦を結ぶ特急「南紀号」は、およそ250キロの距離を4時間かけてゆっくりと走った。列車が愛知から三重、和歌山へと進むにつれ、山々の緑が深まり清流が目立ってくる。終着駅のひとつ手前、新宮駅を越すと、車窓に息を飲むようなエメラルドグリーンの海が広がり、南紀号は、流麗な海岸線を舐めるようにして紀伊勝浦駅に到着した。
半分眠ったような駅前商店街を歩くこと7、8分、全国有数の鮪の水揚げを誇る勝浦港が見えてきた。目当ての島に行くには、この港から船に乗るよりほか方法がない。
碧の海を眺めながら船着場に佇んでいたら、すぐ横を少年のグループが、いとも器用にスケートボードを操りながら駆け抜けていった。今どきのヒップな服装、長い脚、それに男臭さを感じさせない中性的な雰囲気に、つい「ジャニーズ系」のひと言が頭に浮かぶ。この少年たちは、私がこれから行くあの島に、かつて、自分たちと同じ歳頃のジャニー喜多川が住んでいたことを知っているのだろうか。
奥深い勝浦湾に点在する島々や入り江一帯は、「紀の松島」と呼ばれる。リアス式海岸が描く景勝が、日本三景の陸前松島に匹敵することからこう名づけられた。それにしても美しい海だ。畏怖を感じさせるほど澄み切っている。私を乗せた船は、島々を縫って静々と進航し、勝浦湾に130も浮かぶ島のひとつに錨を下ろした。
和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町勝浦の「中の島」——。和歌山県の南部に位置するこの島は現在、全島が高級リゾート施設になっているが、明治後期には帆船が出入りする船宿が、ジャニーが暮らしていた頃には、木造2階建て客室18室の日本旅館が建っていた。彼が、「親戚のおじさんと愛しあう日々を送った」と、被害者で元ジャニーズJr.の大島幸広さん(39)に語ったという「僕の島」である(第1話参照)。
祖父は島の旅館番頭
ジャニー喜多川が日本に住んだ1歳10カ月から18歳1カ月までの16年間は、これまで明かされることのなかった空白の歳月だ。彼は、この全期間を関西圏で生きた。実際、過去のビデオを慎重に視聴すると、普段は東京の言葉を使う彼が、ふいに関西弁で話す場面に出くわすことがある。
生前、ジャニーは「空白の16年」をほとんど語らなかった。というよりも、その大半をアメリカで暮らしたと思わせるように慎重に振る舞ったが、和歌山だけは例外だった。たとえば、被害者のひとり、俳優の服部吉次さん(79)は、私が今春訪ねた時にこう回想した。
「和歌山のことはしきりに話していましたね。だから、よほどよい想い出があるんだなと、僕は思った」
ジャニーが中の島に住み始めたのは、遅くとも1939年(昭和14)、7、8歳の時。この年、僧侶だった父の諦道(たいどう)が「和歌山県勝浦港中之島に転居」したと、真言宗の専門誌、「六大新報」の同年5月号が記している。
だが、もしかすると、それ以前だったかもしれない。というのも、34年(昭和9)5月に母、江以(えい)が早逝しており、かつ、祖父の常吉が、「昭和10年頃に……中の島の経営を一任」されているからだ(『中の島15年の歩み』中之島温泉土地株式会社/73年)。
3人の幼子の養育は、諦道の男手ひとつでは難儀だったろう。反対に、旅館なら板前も中居も揃っている。しかも、祖父は番頭、現代でいえば支配人なのだ。