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 ジャニーは大島さんに、中の島を「お伽の島」と形容したというが、確かにここは、穢土(えど)とは遠く離れた楽園のような島だ。吉野熊野国立公園の特別地域に指定された島の面積は、およそ2万坪。ユズリハやヤマモモ、シダ類が密生し、島の頂上からは、紀の松島全景や熊野灘を見晴るかすことができる。海ではイルカたちが陽気に飛び跳ね、そのうえ、島の数カ所から温泉さえ湧出している。戦前唯一の欠点は飲み水がないことだったというが、代わりに水舟が行き来したというのだから、いっそ優雅である。

 これほど美しい島で、幼いジャニーと「親戚のおじさん」による倒錯の世界が繰り広げられたのか? そのおじさんとは、いったい誰だったのか? 姉のメリーは、2人の関係を知っていたのだろうか? 今となってはすべてが藪の中だが、メリーが、「弟は子どもの頃、男と関係を持ちながら育った」(第1話参照)と、元歌手で女優の故・名和純子に告白したと伝えられることからも、私には、性加害は実際に行われ、メリーはその事実を知っていたと思えてならない。

足元が揺らぎ始めた父

 さて、アメリカから帰国後、京都の旧嵯峨御所・大本山大覚寺に籍を置いた諦道だったが、35年(昭和10)2月末をもって依頼免職した。入寺からほんの1年2カ月の短さには驚くが、その後も活発な動きはしていたようで、「六大新報」には、僧侶の集会や布教師の送別会の出席者として諦道の名がたびたび登場する。

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 が、そこに肩書はない。

 たとえば、同誌37年7月号の「公人私人」欄には、「喜多川諦道師(省線立花駅前)去五日米国ロスアンゼルス高野山別院附属ボーイスカウト来朝の件につき、諸準備打合せのため入洛の砌来社」とある。併記された彼以外の「公人私人」には、「神戸聖徳院主」や「古義学務部長」「勧修寺執事」といった職名があるのに、ひとり諦道だけが地名のみでいかにも座りが悪い。

ジャニー氏の父、喜多川諦道師 『高松宮宣仁親王殿下 高松宮妃喜久子殿下 奉迎記念写真帖』(31年)より

 どうやら諦道は大覚寺を辞した後、兵庫県尼崎市の立花町に越したようだ。他の記事には、肩書代わりに「尼崎市」の記載も見られる。

 そして、次に諦道の名が「六大新報」に現れるのが、先述した39年(昭和14)5月号の「喜多川諦道師 今回和歌山県勝浦港中之島に転居」で、ここでもやはり職業は不記だ。

 ロサンゼルス、京都、兵庫、和歌山・中の島……たった5、6年の間に、3児の父が3カ所も居を移すとは尋常ではない。喜多川諦道の一生を追う時、この人にとって人生のピークはアメリカ出国の日、信徒や邦人が「自動車百数十台を連ねて」(『羅府新報』33年8月25日付/第1話参照)、港まで彼と家族を見送ったあの日だったと思えてくる。諦道は、開拓向きの人物なのだ。だからこそ、自由の国、アメリカの誕生間もない貧乏寺で、本来持っていた奔放な気質を開花させることができた。

 ところが帰国すると、元々寺の子でもないので帰る拠点がない。滞米10年の活動は僧侶の位に反映されないので、四十路近くになってもたいした権限もない。なにより、異国で苦楽をともにした妻は早逝してしまった……。彼が、デラシネ、根無し草になる条件は、充分すぎるほど揃っていたのである。