当時小学2年生の長女と幼稚園年長の長男は、私が引き取ることになった。妻にも言い分はあったが、私はサラリーマンと違って多くの時間をお寺で過ごしているため、お坊さんとシングルファザーは両立できると主張した。また、子供の教育面においても、たくさんの人々が出入りするお寺のほうが、いろいろとケアもできると信じた。
とはいえ、理屈としては「お寺で子育て」は美談であるが、現実には、僧侶としての仕事以外に連載の執筆なども抱えていた私が、シングルファザーとして育児家事までこなすなど、果たしてできるのか。子供の心の傷を癒して、まともな生活を取り戻せるのか。
やり切れる自信などまるでなかったが、世の中のシングル家庭はみんな同じような苦境を乗り越えているはずである。お坊さんがここで打ちひしがれている場合ではない。
ブーメランのように返ってきた「自分の言葉」
しかも私は数年来、「苦しみに寄り添う」「仏教を生きる力に」などと掲げて、仏教の改革を叫んできた。勇ましく放ってきた言葉の数々は、ブーメランのように我が身に向かって返ってきた。
お寺の跡取りとして守られてきた子供時代や、幸せな結婚生活を過ごしていた頃には、思ってもみなかった苦境。僧侶はさとりの世界に近い存在であるはずが、夫婦関係がもつれにもつれ、ひとり親となり育児家事に追われて生きるという浮世ど真ん中の生活。
果たして、仏教は、シングルファザー住職の味方となってくれるのか。
お寺で暮らすことで、子供の心は豊かに育っていくのか。
私が仏教と本気で向き合う日々は、ここにようやくスタートしたのである。