「ヒールをやるか、プロレスをやめるかの二択。もちろんプロレスをやめる気はなかったから、事実上、一択ですよ」
1980年代、ダンプ松本の誘いでヒールユニット「極悪同盟」のメンバーになったブル中野さん。最初は嫌だったヒールになぜなったのか? そして彼女をレスラーとして有名にした「半ハゲ」スタイルが生まれた意外な経緯とは? 新刊『全日本女子プロレス「極悪ヒール女王」列伝』(双葉社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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「選択肢がない時代でよかった」
「嫌でしたね、ヒールになるなんて。まだ16歳ぐらいだったし、かなり抵抗はありましたけど、先輩から誘われて断るわけにはいかない。当時は他に女子プロレスの団体がなかったから、この時点でヒールをやるか、プロレスをやめるかの二択。もちろんプロレスをやめる気はなかったから、事実上、一択ですよ。
いまだったら、どうにでもなるじゃないですか、団体がいっぱいあるし。でもね、あの頃、そんな状況だったとしたら、私はきっとダメになっていたと思う。絶対に楽なほう、甘いほう、お金がいいほうに流れていって、レスラーとして結果を出せなかっただろうし、名前を残すこともできなかった。そういう意味では選択肢がない時代でよかったなって、すごく思いますね」
とはいえ、当時のブルは嫌々ながらにヒールにさせられたわけで、まったく覚悟もできていない状態だった。
「本当にプロじゃなかったですよね。ヒールをやっているんだけど『本当は悪い人間ではないから』という気持ちがダダ漏れしていて(笑)。本当は若手なんだから、どんどん前に出ていかなくちゃいけないのに、ヒールになったことを受け入れられていないから、常に後ずさりしていた感覚。ギリギリのところで踏みとどまっていただけで前に進むどころか、前も見えていなかった」
16歳の少女がいきなり悪役をやらされて、会場に行けばファンから石を投げつけられる日々。ダンプ松本の教えは「絶対に笑顔を見せるな、ファンと接するな、サインなんてするな、悪役に徹しろ!」。
ヒール志願でもないのに、この教えを守らなくてはいけないのは、さすがにメンタルを鋭く削られるが、そんなブルの姿を見て、ダンプ松本が動いた。
ブルに「お前、今日からモヒカンにしろ」と言い放つと、バリカンで髪の毛を刈った。しかも完全にモヒカンになる前に「まだ半人前だから、半分だけ刈ればいいや」と左側だけを刈って放置。その写真を全女の広報だったロッシー小川が『週刊プロレス』編集部に送ったことで、イッキにその異様な容姿が全国に広まることになった。