翌年の1981年7月、恒例の概算要求書類の作成のために東京拘置所で泊まり込んでいた坂本は袴田と2度目の面接を行った。
坂本は完全に袴田は冤罪であると確信していたという。法務省の事務官という自身の地位を守るために誰にも口外していなかったが、もう予算書類作成のことなど考えていなかった。1冊の雑誌を渡すために袴田に面会を申し入れたのである。
それは前年12月に再審が決定した免田栄死刑確定囚の冤罪事件を特集した雑誌だった。法律書ではないが、免田が再審を勝ち取った記録を袴田にぜひとも読んでもらいたく、差し入れを決意したのだ。坂本はどんな声をかければ良いのかと迷っていたが、現れた袴田死刑確定囚は想像以上に毅然としていた。凛とした口調でこう言った。
「事務官、また面接に呼んで頂いてありがとうございます。自分はこんなことでへこたれませんから大丈夫です」
「看守はすべてを分かっているようだった」
袴田は諦めていなかった。自身の再審請求をこの年の4月に行っていた。坂本は雑誌を渡しながら、免田栄について説明をした。
1948年に熊本県人吉市で起きた殺人事件の犯人とされた免田は死刑を宣告されるも獄中で自ら六法全書を読み込んで闘い続けていた。係争していく中で警察がアリバイを証言する人物を免田に不利になるように誘導したり、証拠を隠蔽していた事実も明るみになった。
「私が読みましょうか?と伝えると、『事務官お願いします、ありがとうございます』と快活に言われました。警察が免田さんを犯人と決めつけて証拠を隠していた箇所になると袴田さんの顔が歪みました。自分に対する清水署のふるまいを思い出したのでしょう。私は担当の刑務官に自分が泊まり込んでいる間はこの雑誌を袴田さんに貸与して欲しいと頼みました」
坂本は、保安課長には伝達済みであるからと伝えた。とっさに出た嘘であった。しかし、じっと見ていた刑務官はそれが虚偽であることが分かっていながら、裏表紙に許可を証明する自身の捺印をしたメモを貼ってくれた。袴田の普段からの行状を知っている看守はすべてを分かっているようだった。坂本は黙って目礼で返した。「ふと見ると袴田さんもまた担当に頭を下げていました」。