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「冤罪など存在しない」と信じる管理職たち

 冤罪など存在しないという決めつけは、被告人の苦しさを知らずに2、3年で転勤を重ねる管理職ほど頑迷固陋に持つという。しかし、「こがね味噌」専務一家強盗殺人放火事件の裁判をつぶさに検証すれば、捜査を行った清水警察署が当初より、袴田を犯人とするシナリオを描いてその通りに仕立て上げていったことは容易に推察できたと坂本氏は指摘する。

 ここで事件と警察・検察が行ったとされるねつ造疑惑についてさらってみる。

 事件が起きた1966年6月30日、犯行時間は午前2時頃とされているが、焼け跡で発見された被害者の4つの遺体はそれぞれ普段着のまま倒れており、シャープペンや腕時計を身につけていた。夕刻から就寝までの時間帯に殺害されて、深夜になって家に火が放たれたと考えるのが自然である。

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昭和40年1月から勤め始めたみそ製造会社「こがね味噌」で、40年6月までに撮影されと思われる袴田巌さんの写真(袴田秀子さん提供/時事通信社)

 当時「こがね味噌」の従業員だったこの日の袴田の行動は、夕食後に職場の同僚と将棋を指しており、午後11時に床に就いていることが確認されている。就寝前の犯行だとすれば、アリバイが完璧に成立してしまう。

 これに対し、清水警察は犯行推定時刻を午前2時から未明であるとして、体力のある元ボクサーHが捜査線上に浮かんで来たと発表。その4日後には、今度は「血のりがついていた袴田巌のパジャマを発見した」と発表した(しかし、実際にパジャマに付着していたのは血のりどころか、鑑定すら出来ない微量の血液だったことが後に判明する)。

 任意同行を求められ、そのまま拘禁された袴田はほぼ2カ月に渡り、連日12時間から13時間に渡る過酷な取り調べの末、犯行を“自白”する。しかし、袴田は審理が進めば、真実が必ず証明されると信じていたという。事実、小さな擦り傷の血が滲んだようなパジャマだけでは、証拠が脆弱で公判維持が困難と思われた。

警察側の「自己矛盾する新証拠」

 ところが、警察側は逮捕から1年余りが経過した1967年8月に突然、味噌の醸造タンクの中から発見されたとして、麻袋に入った5つの衣類を新たな証拠として提出。衣類には鮮やかな血痕が付いており、袴田がこれを犯行後にタンクに隠していたというのである。

 しかし、検察は冒頭陳述で、「犯行時の着衣はパジャマである」という起訴事実を述べており、自らの前言と矛盾することになる。そもそも前年に味噌タンクは、捜査本部によって散々調べられていたが、何も出て来ていなかった。