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「翼音も『祖父ちゃんを手伝うよ』と」

 その約3カ月後、金沢地区に避難した組合員有志が金沢市(かな)(いわ)港で「出張輪島朝市」を開催すると、そこにも溌剌とした翼音さんの姿があった。

「第1回の出張朝市以降も翼音は何度も手伝いにきてくれて。呼び込みから工芸品の包装、お金の扱いまで何でも完璧に任せられるようになっていました。輪島塗の仕事は、まだ震災前の2割程度しかできていませんが、私は再建するつもりでしたし、翼音も『祖父ちゃんを手伝うよ』と。この夏休みにも、富山県や白山市など、2人で出張朝市に行ってきたばかりやったんです」(同前)

金沢の高校を受験したい

 震災から間もなく、誠志さんと妻は、金沢市に近い野々市市に一戸建てを借りた。仕事と生活の拠点は輪島市から遠く離れてしまったが、翼音さんからは、嬉しい申し出もあった。

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「翼音は来年、金沢の高校を受験したいと言って勉強を頑張っていました。『祖父ちゃんと祖母ちゃんの家から通っていい?』と。私らも『待っとるから、来いよ』と言っていました」

中学では美術部の部長だった喜三翼音さん

作品は洪水の後の川から

 絵を描くのが得意な翼音さんは、中学校で美術部の部長を務めていた。

「翼音に『高校でこっちに来たら漆の絵付けもやってみっか?』と聞いたら『やってみる!』と。小学校の卒業制作でやったことはあるんです。沈金彫りといって、15センチ四方ほどの板に柄を彫って、金粉を入れて。翼音はバラの絵を彫っていました。その作品は洪水の後の川から見つかりました――」(同前)

 あの日、能登半島北部の上空に発生したのが、集中豪雨をもたらす線状降水帯だった。その無慈悲な雨量は、午前8時から11時の3時間で輪島市の平年の9月1カ月分を上回った。