お律から見れば兄の方がよほど嬉しそうだったようだが、続けてお律は真之の容貌がかつてと変わったことを悪しざまに言う。だが子規からは、お律は恋心を隠せていないと見えたようだ。
「去年の夏、淳さんは帰っておいでじゃったが、たいそう」
「たいそう、なんじゃ」
「悪相(あくそう)になっておいでじゃった」
と、お律はいった。真之といえばもともと小柄で隼(はやぶさ)のように機敏で、そのうえ目が少年のころからするどく、顔そのものも筋肉でできているように筋(すじ)ばっている。お律にいわせればそのうえに色が真っ黒になって目ばかりぎょろぎょろしている。
「だから悪相か」
子規は、笑った。お律の反語にちがいなかった。
――好きなんじゃ。
と、これまでもそうにらんできたが、いまあらためてそうおもった。かつて、かるい縁談のようなものが、匂(にお)い程度にあったらしい。
(『新装版 坂の上の雲』第1巻「ほととぎす」より)
ドラマ版では、原作のこういった描写から、お律の心情に焦点を当てた切ない物語へと昇華させ、一つの大きな見どころにしている。
一方、好古と佐久間多美(演:松たか子)のやりとりは、一部ドラマのセリフにもそのまま使用されている。
好古が離れをかりている旧旗本の佐久間家には、
「お姫(ひい)さま」
とよばれている十四歳の小むすめがいる。名を、多美(たみ)といった。狆(ちん)のように可愛い目をしていたので、好古は、ある日、つい、
「狆」
とよんだ。多美は女児ながらよほど腹にすえかねたのか、それきり好古と顔をあわせても口をきかなかった。
(編集部注:狆は日本原産の愛玩犬種。丸く大きな目が特徴)
(『新装版 坂の上の雲』第1巻「騎兵」より)
ドラマのように、馬に乗った多美を好古が突然抱き下ろすような場面はない。が、原作のこの記述は、好古の女性に対する独特の距離感を端的に表現しつつ、後にこのような関係だった2人が結婚するおかしみをも含んだエピソードとして、読者に強く印象を残している。
短いエピソードの中にも様々な心情や背景を織り交ぜる司馬さんの筆致は、ドラマ版においても、登場人物たちの魅力を際立たせる重要な要素となっていると言えるだろう。
次回は、第5~8回放送(44分版、「国家鳴動 前後編」「日清開戦 前後編」)分の原作エピソードを紹介する。
※文春文庫編集部ではドラマ『坂の上の雲』放送終了直後に、渡辺謙さんの語り部分を中心に、原作から印象深い文章(一部省略)を抜き出した下記のようなポストをしています。
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