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 もちろん日本の占領政策が朝鮮半島に不幸をもたらしたのは言うまでもないが、どんな政府の下にも人それぞれのドラマがあり、日々の糧を得る為に生きていかなければならない。半島の人々の中には日本に行って、ひと旗上げようと考えた人も少なからずいたことだろう。戦後、大阪砲兵工廠に忍びこみ、鉄屑拾いをした人々の生き様を活き活きと描いた開高健の「日本三文オペラ」の中の一節。

「部落の朝鮮人家庭を知れば知るほどフクスケは彼らあるいは彼女らの勤勉さに舌を巻くのがつねであった。なんでも彼らの出身地の済州島は世界一の不毛の地なのだそうで、底の貧乏で鍛えられると、たとえばこのアパッチ部落のごときは極楽の蓮にのっかっているようなものだという見解であった」

 おそらく織原の父親も日本人が驚くほどの勤勉さで財を成したのではなかったか、地区の中には、小説の舞台となった現在の大阪城公園にあたるアパッチ部落へと繋がる平野川が流れていた。平野川はかって蛇行していたのだが、主に済州島から来た朝鮮人労働者の護岸工事によって、今のような一直線の川となった。この水路のような川を織原の父親も眺めたことだろう。織原の父親を含めた半島人たちの生き様は、この川のようにまっすぐで単純なものではなかった。

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犯人が育った高級住宅街へ足を運ぶと…

 桃谷から大阪環状線で天王寺へ、そこから路面電車に乗ると、中学生まで織原被告が暮らした帝塚山の高級住宅街がある。小さな木造家屋が密集していた桃谷周辺とは趣が違う。この街で育った織原被告はあの平野川が流れる町を訪ね見たことがあったのだろうか。

 実家の表札には織原被告が日本人に帰化する前の姓が掛けてあった。彼が日本人に帰化する時に母親が反対したといわれているが、表札はその事を物語っていた。週刊誌の報道によれば、小学校の卒業時の寄せ書きには、「家柄よりしつけが大事」と書き残している。出自に対する差別があったのだろう、その時の痛みが、日本国籍取得へと向かわせたのではないか。

 中学卒業と同時に、織原被告は田園調布へと移り住む。親元を離れお手伝いさんと暮らしながら、慶応高校へと通った。

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