日本観の変化、実は変わったのは韓国社会だ
そういう雰囲気も、いまや過去のものとなった。それもそのはず、世界の最先端技術の市場において日本企業の存在感が薄れた一方で、韓国企業は善戦している。韓国のアイドルグループの歌が海外の有名ヒットチャートに登場するなど、K-POPは世界的なヒット商品となった。インターネット時代が幕を開け、企業経営や文化産業のパラダイムも大きく変化した。わざわざ昔の日本式経営を手本とする必要も、日本のテレビ番組や音楽をこっそり真似る必要もなくなったのだ。
そこへもってきて福島の原発事故やコロナパンデミックへの日本政府の対応がお粗末とくれば、「先進国だと思っていたのに失望した」という声も出てくる。とはいえ、そういう発言をするのも、ある程度年配の世代だ。若い世代にとって日本は「オタク趣味を満喫できる場所」あるいは「おいしい寿司が食べられる旅行先」に過ぎず、昔韓国が手本としていた国だと言われてもピンとこない。韓国社会が日本社会を見る目が変わりつつあるのだ。
日本企業や日本の大衆文化が輝きを失ったのは、かつてのような活気がない日本の社会像をある程度反映した結果と言えるだろう。だが実は、韓国が「日本を手本にしよう」と言っていたころにも、日本社会は数多くの矛盾や課題を抱えていた。当時は韓国社会も自分たちの課題で精一杯で、日本のそういう面があまり見えていなかっただけだ。一方、今の日本社会にも強みはあるし、学ぶ点はある。だが、経済的にも外交的にも大きく成長した今の韓国社会にとって、そういう面はあまり目に入ってこないのだ。
見る観点によって見えるものも変わってくる。日本社会に対するイメージが「憎くても学ぶべき国」から「近くて親しみのある観光地」へと変わりつつあるのは事実だが、それは必ずしも日本社会の変化を客観的に反映した結果であるとは言えない。そうではなく、変わりつつあるイメージの中に、韓国社会が日本社会をどのように理解しているのか、あるいはどのように理解したいと思っているのかが溶け込んでいる、と考えるほうが妥当だ。
あらためて振り返ってみると、韓国社会が日本を見る観点には、禁欲主義的な事大主義が潜んでいたような気もする。憎い相手から学ばねばならないなんて、どんなにつらく苦しいことか。今はそういう重苦しい気持ちも薄らいだ。ようやく同じ目の高さで日本社会を直視し、こじれた問題を冷静に見つめる余裕ができた、とも言えるだろう。そろそろ韓国社会も、淡々とした気持ちで日本社会の素顔と向き合う時だ。