彰子は「なにゆえ私に一言もなく、次の東宮を敦成とお決めになりましたのか」と道長に迫った。しかし、道長の結論は「政を行うは私であり、中宮様ではございませぬ」だった。
彰子は、「中宮なぞなにもできぬ。愛しき帝も敦康様もお守りできぬとは」と落胆し、まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に「藤式部、なぜ女は政に関われぬのか」と問いかけてみた。
この発言にかぎれば、現代のジェンダーフリーや男女共同参画を意識しすぎた台詞で、平安中期の中宮の発言としてはどんなものか、という気もする。ただ、まちがいなくいえるのは、彰子はこの後、政治に積極的に関わっていったということである。
人事にも彼女の考えが反映するように
最愛の一条天皇を亡くし、願っていた敦康の立太子が叶わなかった24歳の彰子だったが、その後、道長と反目したわけではなく、我が子である敦成をしっかりと支えた。まだ幼い敦成への母親としての思いは、『後拾遺和歌集』に収められた以下の歌に表されている。
見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花
(見るにつけ涙の露がこぼれます。一条天皇が亡くなって後に残されたことも、わからないまま撫子の花を手にする我が子よ)
長和2年(1013)正月2日、道長が公卿らに、おのおのが食べ物を持参し合って、彰子邸で宴会をしようと誘ったときのことである。そのころ、彰子の妹で三条天皇の中宮になっていた妍子(倉沢杏菜)が連日、宴会を開いていた。藤原実資(秋山竜次)の日記『小右記』によれば、いまは権力を握る父にみなへつらっているが、死後には非難されるから、無駄な宴会はやめたほうがいい、と彰子は道長を諭し、中止させたという。
宴会に関する話は直接的な「政」ではないかもしれないが、以後、彰子が人事をはじめとする「政」に関与したという記録は、多々見られるようになる。
居貞親王が即位した三条天皇が譲位し、いよいよ敦成親王が後一条天皇として即位したのは、長和5年(1016)正月のこと。道長は念願の摂政になるが、同時に故伊周(三浦翔平)の長男、道雅が天皇の秘書官長である蔵人頭になった。『小右記』によれば、すでに前年12月から、彰子は一条天皇の意志であることを理由に、道政の蔵人頭就任を決めていたという。