このように国母となった彰子は、かつて「うつけ」と見られたのがウソのように、また、女性が「政」に関われないと嘆いたとは思えないほど、自分こそが天皇家と藤原氏の実質的なトップだという自覚のもと、天皇や摂関を貢献していった。
ところで、父の道長は頻繁に体調不良に陥り、長男の後一条天皇も病気に悩まされたが、彰子自身はかなり丈夫だったようだ。母である倫子の母、すなわち母方の祖母の藤原穆子は86歳まで、母の源倫子は90歳まで生きた。おそらく彰子はそちらの血を引いたのだろう。病気になったという記録がほとんどないまま、承保元年(1074)、87歳で没している。三代にわたって、当時としては異例な長寿なのである。
それだけに、悲報に接する機会も多かった。すでに後一条天皇の治世においても、万寿2年(1025)には末妹の嬉子、異母妹の寛子をはじめ、ゆかりの人々が次々と世を去り、『栄華物語』には、それを受けて「早く出家したい」と思うようになった旨が記されている。
こうして万寿3年(1026)正月、40歳になった彰子は出家して上東門院の院号を得た。
出家後も維持し続けた権威と権力
しかし、その後も、彰子は内裏に参入し、また、多くの殿上人を参入させ、自身の権威を保ち続けた。
万寿4年(1027)12月に道長が没したのちも、その点は変わっていない。たとえば、実資が養子の資平が昇進できるように頼通に頼んだときも、頼通からは、了解したうえで「女院に申すように」と伝えられた旨が『小右記』に記されている。
後一条天皇が病弱で、なおかつ頼通が、なかなか一人で物事を決められない優柔不断な摂関だったこともあり、彰子が実質的に国政を支え続けることになった。
前述したように、のちの院政のモデルになったことからも、彰子の活躍をもって女権の伸張とはいいがたい。しかし、彰子がのちの北条政子などと並んで、異例なほど権力を行使し、「政」に関与した女性であったことはまちがいない。
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。