先輩の命令には絶対逆らえない…今以上に厳しかった、昭和、平成のプロレス業界を生き抜いたブル中野さん。新人時代は周囲から「すぐやめる」と思われていた彼女が、なぜ女子レスラーのレジェンド的存在になれたのか? 今よりもレスラーに選択肢のない時代を「よかった」と振り返る理由とは? 新刊『証言 全女「極悪ヒール女王」最狂伝説』(宝島社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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「すぐやめる」と思われていた新人レスラー時代
日本でいちばん有名な悪役レスラーといったら、それはもう“極悪女王“ダンプ松本であるが、世界で一番、と言われたら、ちょっと話が違ってくる。
世界でいちばん有名な悪役女子プロレスラー、それは間違いなくブル中野である。
2024年春、ブル中野は世界最大のプロレス団体・WWEから表彰された。日本人女子プロレスラーとして初の「殿堂入り」を果たしたのだ。この快挙に全米のプロレスファンだけでなく、WWEで活躍しているスーパースターたちまで「子供の頃、テレビで夢中になって観ていたよ!」と最大限の敬意を表した。トッププロが憧れる存在、文字どおり“世界の女帝”である。
とはいえ、彼女がここまでの存在になるなんて、デビューしたときは誰も想像だにしていなかった。
「ヒールの素養? そんなものはないですよ。私がこうなったのは全女に入って、いろんな意味で鍛えられたからですよ。だって私がデビューした時、松永兄弟が『今年の新人で誰が最初に辞めるか?』って賭けをしていて、私がダントツのいちばん人気だったみたいですよ(笑)。みんな、すぐに辞めると思っていたって」
身長170センチという恵まれた体軀で、入団前から期待されてはいたが、穏やかな性格の愛称「パンダちゃん」はプロレスラーとして生きていくにはちょっと厳しい、というのが全女経営陣の見立てだったようだ。
その後、ダンプから熱烈なスカウトを受けてヒール転向。本意ではなかったが、当時、日本に女子プロレス団体は全女だけ。ヒールになることを拒否したら、全女にいられなくなる。すなわち、それはプロレスラー廃業を意味していた。プロレスラーを続けたかったら、もうヒールになるしかない。そんな時代だった。
「嫌でしたね、ヒールになるなんて。まだ16歳だったし、かなり抵抗はありましたけど、先輩から誘われて断るわけにはいかない。今だったら、どうにでもなるじゃないですか、団体がいっぱいあるし。でもね、あの頃、そんな状況だったとしたら、私はきっとダメになっていたと思う。絶対に楽なほう、甘いほう、お金がいいほうに流れていって、レスラーとして結果は出せなかっただろうし、名前を残すこともできなかった。そういう意味では選択肢がない時代でよかったなって、すごく思いますね」