商品を右から左へ流すだけで利益を獲得する「ダフ屋」。かつては人気イベントを開催するイベント会場周辺などに多くいた違法業者はなぜ見かけなくなってしまったのか? その歴史背景を、ライターの奥窪優木氏の新刊『転売ヤー 闇の経済学』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む

「ダフ屋」はどこへ消えたのか? 写真はイメージ ©getty

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ダフ屋が消えた理由

 ある人から商材を買いつけて別の人に販売し利ざやを取るという行為は、おそらく人類史上、最も古くから存在する、原始的な裁定取引(アービトラージ)なのではないだろうか。

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 商品を右から左へ流すだけで利益を獲得する者への呼称に「ダフ屋」がある。

 チケットを意味する「札(ふだ)」の倒語が由来とされるダフ屋は、戦中・戦後の配給制度のなかで成長していったと言われている。食糧物資よりも現金を必要とする者から配給切符を買取り、配給分以上に食糧物資を必要とする者に売ったのだ。戦争が終わり、物不足の時代が終わって高度経済成長期を迎えてからは、乗車券や乗船券のほか、コンサートや舞台、プロ野球やプロレスなどのチケットが商材となる。

 ダフ屋による買い占め行為が社会問題化してくると、チケット販売側は購入枚数の制限を課すといった対策に乗り出した。しかしダフ屋側は、頭数を稼ぐためにホームレスを購入要員として動員するなどして、これに対抗した。なにせ、当時のダフ屋の元締めは暴力団であり、チケット転売は貴重な収入源だったのだ。

ダフ屋の元締めは暴力団。写真はイメージ ©getty

 2000年代に入ると、ダフ屋は一転、衰退期に入る。各都道府県がダフ屋行為を禁止する条例や暴排条例を施行したことや、スポーツ界やエンタメ業界でも暴力団排除活動が進んだことも一因とされている。

 警視庁によると、大正時代に結成され、浅草を拠点にダフ屋を仕切り、2003年には約700人の構成員を擁していた暴力団「姉ヶ崎一家(2006年に姉ヶ崎会に改称)」も、シノギが下火となって80人にまでに縮小。2022年に解散した。

 直接の規制や対策以上に、ダフ屋に影響を与えたのが、社会のIT化だ。SNSやオークションサイトで利害が一致する個人同士が簡単に繋がれる時代になり、ダフ屋の存在価値は著しく低下した。正規の手段で目当てのチケットを入手できなかったとしても、インターネットで余分なチケットを持つ人を見つけ、購入すればいいからだ。

 さらに、各種チケットが電子化されたこともトドメを刺す格好となった。当日にイベントの入場口近くで「チケットあるよー」と連呼して客を捕まえるダフ屋のアナログな転売方式は時代にそぐわなかったのである。